日本中国伝統功夫研究会

薬には頼りたくない

22歳で初めてメンタルクリニックに行く

 私が22歳だった1998年当時、まだメンタルクリニックはそれほど多くなく、一般にもあまり知られていなかったと思います。私も「聞いたことがあるような気がする…」、程度の知識しかありませんでした。

 ある飲食店でアルバイトをしているとき、男性の先輩に声をかけられました。

 「君は心が不安定でしょ」といった内容でした。

 その人もメンタルに問題を抱えていること、メンタルクリニックに通っていること、楽になれる薬があること、それを飲めば苦しくなくなるし、眠れるようになるということ、人と話しても緊張しなくなるということ、そういった内容の話をしてくれました。

 当時の私はまだ、高校生の頃に抱いた夢を諦めていませんでした。

「東京に行って、ロックバンドを組んで、同志と出会って、環境保護を社会に訴えるんだ!」

 なぜ、ロックバンドで環境保護なのか? 少し不思議な考え方ですが、しかし「夢がなければ生きていけない」という切迫感があったことと、辛かった高校時代に唯一すがれたものは、ラジオの深夜放送とロックバンドの音楽しかなかったので、その夢を捨ててしまったら、何もすがれるものがなくなってしまう、と思っていました。

 若かった私は、薬の知識はありませんでした。

 ファンだった歌手の尾崎豊さんが亡くなったことや、やはり亡くなられた中島らもさんの小説『今夜、すベてのバー』を読んで、薬やドラッグは人を破壊してしまう恐ろしいものだという知識があったので、「どんなに苦しくても、自分は薬に手を出すことはしない」と自分に誓っていました。

 つまり、「薬=クスリ=危険なもの」と思っていたので、薬は飲みたくないという意志を、その先輩に伝えました。

 「痛みや、苦しみや、そういう感覚は私が辛いことに耐え抜いて生きてきた証だから、それを作詞や作曲という芸術に昇華したい、薬で症状を抑えたくない。この、苦しい、というエネルギーを何かに変えたいんだ」

という内容のことも伝えたように記憶しています。

 そのとき、先輩にこう言われました。

 「君はそれでいいかもしれないけど、周りの人のことは考えたことあるの? 君がしょっちゅう苦しくて電話に出れないことで、君の友達だって苦しくなるんじゃないの? まだ若いんだからこれから時間はいくらでもあるよ、まず周囲の人たちに迷惑を掛けないように、そして友達が楽しく君と付き合えるように、薬を飲んだほうがいいと思うよ。薬は自分じゃなくて、周りの人のために飲むんだよ。自分はそうしてるよ、周囲の人たちと仲良くやっていきたいからね」

 私は、それまでそんな風に考えたことは一度もありませんでした。

 何日か考えた後、そうすれば生き辛さがなくなるのかもしれない、と思いました。

 私は、「周囲の人たちに迷惑をかけてはいけない」という言葉に反応して、メンタルクリニックに行くことにしました。

初めてのメンタルクリニック

 その先輩は、自分が通っているメンタルクリニックを紹介してくれました。場所は銀座だったと思います。

 初診では簡単な質問をされて、あっという間に薬が処方されました。

 診断名は憶えていません。おそらく「気分に問題がある」といった内容のことを告げられました。

薬の効果

 そのメンタルクリニックに通った期間は2か月ほどでしたが、毎週どんどん薬の種類が増えていき、最後には一人暮らしをしていた狭い賃貸の四畳半のワンルームの部屋が、薬の袋だらけになるほど大量に処方されました。

 薬の名前で憶えているのは「リタリン」だけです。

 確かに飲むと気持ちが楽になるし、布団に入るときも「あ~、シーツが気持ちいなぁ、ふぅ、何にもしなくても生きてるだけで気持ち良いって最高だなぁ」という感じになりました。

薬の副作用

 自覚症状で副作用というのはなかったのですが、アルバイト先の仲間に「なんか様子がおかしくなってるよ、薬でもやってるんじゃないの」と言われたり、そういう噂が流れたりしました。

自己判断で服用を中止する

 薬を飲んで2か月経った頃、薬を飲んでも全然周囲の人たちと親しくなる兆候が全くなかったことと、逆に「薬をやっている」という疑いを掛けられたことで、「これでは最初の話と全然違う」と私は思い、薬を全部ゴミ袋に入れて捨ててしまいました。

離脱症状
 薬を飲むのをやめて1週間経った頃、徐々に息苦しくなってきました。

 当時、好んで着ていたハイネックのセーターに首を絞めているような感覚がして、ハイネックの部分が伸びてビロビロになるほど引っ張りました。

 息苦しさの症状はどんどん酷くなり、2週間ほど経った頃、アルバイト先の飲食店でパニック発作を起こしてしまい、更衣室で倒れて救急車で病院に運ばれる騒ぎになりました。

 それは、薬を急にやめたことで起こる「離脱症状」というものだったそうです。

救急病院で言われたこと
 私の離脱症状は、とても危険な状態だったそうです。

 医師が私に言った内容は、

 「たった2ヵ月でこんな深刻な離脱症状が出る薬なんてない、おそらくあなたが薬に過敏なのかもしれない。ただ、症状は本当に危険だった、自己判断で服薬を中断するのはとても危険なことだ、もし体調に変化があったら、必ず掛かりつけ医師か、他の病院で相談しなければならない」

ということでした。

 私が医師に、「怖くて通っていたメンタルクリニックには行きたくない」と伝えると、「薬がまだ余っているなら、まずは処方された通りに飲んで、少しずつ減らしていけば激しい離脱症状は起きないだろう」と言われましたが、「全部捨ててしまいました」と言うと、「他のメンタルクリニックを探したほうがいい」と言われました。

 一番怖かったのは、「薬を急にやめたりすると、ショックで内臓が破裂してしまうこともあるんだよ」という医師の言葉です。

アルバイトを解雇される

 病院から住んでいたアパートに戻ると、アルバイト先の飲食店の店長から電話が掛かってきました。救急車で運ばれたことと、その前に私の様子がおかしくなっていたことを理由に、アルバイトを解雇されました。

1か月間「廃人状態」になる
 解雇されなくても、私は離脱症状で既に動くこともできない状態でした。

 1人暮らしの四畳半のワンルームの部屋で、毎日仰向けになって離脱症状の呼吸困難に苦しみました。

 その1か月間は、感情も失いました。

 寝返りを打つのも何時間も考えないと動けませんでした。

 頭から「動け」という信号を、体に全力で送り続けないと「動く」ということができない、そんな感じでした。

 そのような状態なので、水を飲んだり、食事を摂ったりすることもできませんでした。

 口がきけない状態だったので、友人に電話も掛けられませんでした。

 数日に一回、自動的に私の中の生存本能が起動して、体だけが動いてコンビニに行って、おにぎりやサンドイッチを調達してくるのですが、食べるとまたすぐに廃人状態になってしまっていました。

 今思えば、よく生きていたな、という状態でした。

 1か月ほど経過すると、少しずつ動けるようになってきました。

復活
 時間の経過で離脱症状が軽くなってきたのか、体は動かせるようになったのですが、いつまでたっても「感情」が戻りませんでした。

 「喜怒哀楽」も「快不快」も、何もありませんでした。

 そういう状態で数日間、布団の上で「ぼー」っとテレビを観ていたとき、たまたま『筋肉番付』というTBSの番組が放映されていました。

 なぜだか分かりませんが、頭に血が流れ始めて、様々な感覚が蘇ってきました。

 その回は特別番組だったのか2時間近い放送だったと記憶していますが、ラストにケインコスギさんが真剣に種目に挑んでいる姿を見て、部屋で一人で号泣しました。

社会復帰 ~Webデザイナーになる~

 その後、私は自然回復しました。

 アルバイトを解雇されたことを心配してくれた知り合いが、派遣会社を紹介してくれて、派遣社員として働くようになりました。

 webデザインとHTMLを独学で猛勉強して、web製作の仕事に就き、見たこともないような高額のお給料を貰えるようになりました。

 もともと持っていた人生の問題は解決していませんでしたが、「私は薬だけには頼ってはいけないんだ」と確信するようになりました。

亡くなってしまった先輩
 後から聞いた話ですが、私をメンタルクリニックに行くように勧めてくれた元バイト先の先輩は、その後間もなく、薬とお酒を大量に飲んで、交通事故で亡くなったそうです。
あくまで個人的な体験談であり、すべてのメンタルクリニックや薬を批判している訳ではありません。私は2018年1月から、PTSDの専門治療クリニックでカウンセリング治療に取り組むことになり、回復しています。
2018年4月10日 加筆修正(未完成 執筆中)

執筆の目的と趣旨

高校卒業までに受けた虐待

社会人になってからの苦しみ

つかの間の希望

人生の転機

太極拳修行 ~美談の陰で~

中国で学んだ武徳という価値観

帰国後の展開 ~会の運営~

怪我、入院のこと

複雑性PTSDの苦しみ

これから中国武術を学ぼうと考えている方へ

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田中稜月「Social-Survivor」

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