42歳の誕生日

1月14日に42歳になりました。

中国武術の仲間が、前日にお誕生日会を開いてくれました。

幸せ体験の少ない私は、パーティタイムの殆どの時間を、ミーテングに費やしてしまいました。

ええ、ええ、もう、ただただ、緊張していたのです、照れていたのです。

ごめんなさい。

でも、とても嬉しかったです。

元気が出るビタミンカラーのお花を眺めて、いい香りのするクリームを塗り塗り。

ふわぁ、天上界の人々の暮らしのようだ。

後からジワジワと、嬉しさを実感しています。

鈍くてごめん!

今年は、「ありがとう」という気持ちを、自然に表現できるようになりたいです。

もし今、私のように「人生ドミノ倒し」みたいになってしまって、人間不信になっている人がいたら、世界にはたくさんの人がいて、たくさんの感性を持っている人たちがいることを、少しだけ思い出して、希望を失わないでくれたらいいな、と思っています。

眼窩底骨折(がんかていこっせつ)をした前日の出来事

2012年9月15日午後4時半頃、私は当時開講していた千歳烏山太極拳クラスでの指導を終え、井の頭公園駅行きのバスに乗っていました。

直前の北京修行で、八卦掌第五代正統継承者 麻林城(ま りんじょう)老師より、伝統八卦掌の修得過程の全十段階のうち、第六段階となる「八卦連環掌」を伝授されたばかりでした。

当時、北京修行は3か月単位で実施していました。八卦掌の伝承を受けるために、それが条件だったからです。

1日最低4時間以上の苦練。それも条件の一つでした。

クラスの授業で指導するだけでは、麻林城老師から要求されている次の課題を到底クリアすることはできなかったので、クラス指導の後も、プライベートの休日も、私は毎日毎日八卦掌の練習に取り組んでいました。

「抓紧时间下功夫」
時間をつかみ取ってでも練功すること。

それが、中国武術を学ぶための心得です。

厳しい世界ですので、何度も挫折しそうになりましたが、その日の私は大きな幸福感に包まれていました。

その理由は、そのとき私は、麻林城老師のお言葉を体感できていたからです。

「本物の練功とは、人を消耗させるものではない。練功すればするほど、さらにその奥が知りたくなり、精神と身体に幸せをもたらしてくれるものが、本当の練功法である」

八卦掌を学び始めたばかりの頃、麻林城老師は私にそうおっしゃってくださいました。

その言葉を信じて、4年間必死に単調な基本功を繰り返し繰り返し、数千時間も積みました。

そして、4年後の夏、中国でも本物の伝承を受けている者は数名しかいない、と言われていた「八卦連環掌」を伝授していただけたのです。

もちろん学んだのはまだ型だけでした。本物の功夫をつけるためには、更に長期間に渡る自主練を行わなければなりません。

しかし、八卦連環掌は、学んだばかりだというのに、それでもまるで本物の龍になって空にも舞い上がれるような感覚でした。

夏の終わりの夕方、井の頭公園は人通りも少なくとても穏やかな雰囲気でした。

見上げると、とても美しい木漏れ日に包まれていました。

「ああ、太陽も樹々も美しいな。世界は美しい。このままここでずっと練習していたい」という気持ちになりました。

心の底から幸福を感じました。

過去の恐ろしい支配から逃げ切ったこと、中国伝統武術界に出会ったこと、そのおかげで人間らしく生き抜くことができたこと。そしてこれからは、自立、自由、自分磨き、愛する人との出会い、恋愛、結婚、そういうことができるようになったこと。

それが嬉しくて、胸がはじけそうでした。

そしてなにより、いつか八卦掌の継承者になって董海川ファミリーの一員になる夢に一歩近づけたこと、血の繋がりはなくても努力次第で家族の一員になれる夢があること。

家族のいない私にとって、尊厳と、死んでも消えない伝統継承者という繋がりは、命に代えても欲しいものでした。

「夢は、かならず叶う!」

私の胸は、自信と希望に満ち溢れていました。

生まれてきて最高に幸せな時間だったかもしれません。

しかし、次の瞬間、なぜかほんの少しだけ不安な気持ちが沸き起こりました。

翌日は、私が会長となって主催していた日本中国伝統功夫研究会の交流練習会が予定されていました。

「行きたくないな」

無責任ですが、なんだか嫌な予感がしました。

「ずっとこのまま、この木漏れ日の下で八卦掌の練習をしていたいな」

そう思いました。

そして、「ダメだダメだ、私が訪中している間、留守にしていたクラスの会員さんたちや、自主練習をリードしてくれていた指導員のみんなにお礼をしなければ」

そう理性で自分を律しました。

今にして思えば、指導員のみんなや、会員のみなさんは、私に無理をしてまで、イベントを開催して欲しいなんて思っていなかったことは分かります。

私が、気を使い過ぎていたのだと思います。

予感は大切にすべきだと思いました。

翌日、イベントは無事行われました。

しかし、翌々日の朝、私の顔は眼窩底骨折と、左こめかみの骨折で、顔の3分の1が破壊されていました。

つづく

月経で汚れた下着をバケツに入れて道路に出される

私は小学4年生の時に小学校のトイレで初潮を迎えました。なにも予備知識がなかったので大怪我をしたのだと思い、生まれて初めて死の恐怖に怯えました。

泣きながらヨロヨロと保健室に行きました。

その日はたまたま父兄参観(私は母子家庭です)の日で、私の不登校問題で母が学校に呼び出されていたので、保健室の先生は母を呼びに行きました。

私は、母が校内にいることを知っていたのに、母のもとではなく保健室の先生に助けを求めていました。

保健室の先生が、母に私の体のことを説明していたのを聞きながら、私は「母にきっとまた怒られる」と思って嫌な気持になりました。

子供心に「どうやら今日は自分にとって大切な日らしい」と感じ、どうしてこんな日に限って母が学校にいるのかと、がっかりしました。

母さえいなければ、保健室の先生が優しくしてくれて、大切な日に優しい先生と一緒に保健室にいられたのにと思いました。

母に家に連れて帰られると、生理用品の置いてある場所を教えられ、自分で使うようにと言われました。

私は、生理用品の使い方が良く分からずに、度々下着を汚しましたが、母から「汚れたらお風呂場のバケツに漂白剤を入れて下着を綺麗にするように」と教えられていたので、なるべくそうしていました。

しかし、3歳年下の弟がいたので、恥ずかしくてできない時もありました。

こっそり洗濯機の中に隠して、弟のいないときに洗おうと思って、そのまま忘れてしまうことも何度かありました。

そんな時は、毎回母に叱られました。

「きさね(汚い)、気持ちわりい! まっこつ(本当に)常識がねえ。そのだらしね(だらしない)ところは父親そっくりじゃわ! どんげしようもねぇ(どうしようもない)人間じゃわ!」

必ず怒られるときは、離婚していなくなった父を引き合い出されて罵られていました。

物心ついた頃から母に怒鳴られていたので、私は無気力な子供でした。

改めようと努力しても、きっとまた失敗して母に叱られるのだから、私は欠陥人間なんだ、生きていないほうがいいんだ、と毎日思っていました。

ある日、珍しく真面目に学校に行って家に帰ってくると、家の前の道路にお風呂場にあるはずのバケツが置いてありました。

私の育った場所は過疎地です。

その道路は、近所の人や、同じ学校の人や、顔見知りの人がみんな歩いて通る道です。

バケツの中を見たら、私の汚れた下着が入っていました。

私は、なぜ母がそうしたのかを考えると、恐ろしくて身体が凍ったようになりました。

その汚れた下着は私自身だと思いました。

母の私への嫌悪感が恐ろしくて、そのバケツをどうすることもできませんでした。

そのまま自分の部屋に逃げ込んで、布団を頭から被ってジッとしていました。

いつも息が苦しくなったり、心臓がドキドキしたり、耳鳴りがしたり、体中が痛くなったりしたときは、そうやって布団を被ってジッとしていました。

台所の方から、母の大きな声が聞こえました。

「あんたが、また汚れた下着を洗濯機に入れちょったから、何回ゆっても治さんから、お母さんはみぃんな(皆)に、あんたがだらしねぇ、っちゅうところを見てもらうために、外に出しちょったからね。これでもう、みぃんな、あんたが、きさねぇ(汚い)、だらしねぇ人間じゃっちゅーことが分かったわ」

母は、廊下の向こうの台所から、私のいる部屋に向かってそう言っていました。

私は、ガラスが割れるような気持ちになりました。

もう恥ずかしくて学校に行けない、外にも出れない、弟もバケツを見て怖がるだろうから、もう弟を守ることができない。

もう二度と、布団から出たくない。

壊れた現実を見たくない。

そう思って、何日も何日も布団の中から出られませんでした。

最近怖い夢を見てません

昨年の12月25日の夜、体調が悪かったので夫に相談をしていたらパニック発作を起こしました。原因は、なんだろう…、ストレスとか、不安とか、カサンドラ症候群とか?

実は、夫は知的障害を伴わない大人の発達障害で、アスペルガー症候群かADHDの可能性があります。たぶん受動型アスペルガーなので優しくて大人しいのですが、物事が決められなくて、延々と説明をする人です。なので話は長くなるのに、大切なことがなかなか決まりません。職業病なのか法律関係の専門用語を連発するので、聞いているうちに私の頭はチンプンカンプンになるのです。

その前から発作が起きる頻度が高くなっていたので「もー限界だ、誰かに聞いてもらわねば」と思い、事情があってずっと連絡できなかった仲間に夫からLINEでSOS連絡をしてもらいました。

非常識にもクリスマスの夜です、全然気づいていませんでした。ごめんなさい(汗)

それでも仲間は心配をしてくれて、病院とかいろいろと親身にアドバイスをしてくれたのですが(クリスマスの夜なのにありがとう)、しかしフラッシュバックしまくっていた私は、まったく噛み合わないヒステリーを起こしまして、「病院じゃなくて、友達が欲しいのー!」と41歳にもなって恥ずかしい告白をして、「よしよし、話聞くから」となだめられて落ち着いた次第です。

私は人との距離感をうまくとるのが、ものすごく苦手です。

武術の講師としては自信があるのですが、プライベートはダメダメです。

人と話すと、夜寝ている時に過去に受けていた虐待がフラッシュバックして、悪夢になってしまい飛び起きます。

PTSDの症状の1つで「悪夢障害」というそうです。

薬を飲んでも根本的には治らないので、カウンセリングが必要らしいです。今年はちゃんと前向きに治療しようと計画しています。

また病院に行く気になったのは、仲間たちのおかげです。

普通に話せて心配してもらえるって、とっても嬉しいことなんですね。

41年もかかったけど、友達って待ってるだけじゃできなくて、感性とか優しさとか縁とか心とか、あと勇気や強さ、人としていろいろな徳を磨かないとできないものだと思いました。武術の功夫と同じで、慌てずゆっくり誠実に築き上げていくものだな、と。

弱ってるっていうのを必要だから伝える、ってなかなか怖いことでしたが、人の強さや、自分の強さを信じることを知りました。

あれから16日間、1日しか悪夢を見てません。

まだ完治したわけじゃないから、これからも揺れ動くだろうけど、今は楽です、ありがとう。

カミングアウトについて

数年前、私がまだ八卦掌や太極拳の教室をたくさん担当していた頃、何度も何度も迷っていたことがありました。

それは「カミングアウトして、心を軽くしたい!」ということです。

子供の頃からのこと、対人恐怖症のこと、天涯孤独のこと、それでも頑張っていたこと、中国留学から日本に帰ってきたら浦島太郎状態になっていたこと、数少ない関係者に言われた言葉、そのことが原因で抗うつ剤や睡眠薬を飲みながら教室に行かざるをえなくなったこと、薬を飲んでいるのに生徒さんに健康法を指導している自己矛盾、過去にあった出来事や、自分の本当の想い。

自分では「等身大がモットーです!」と思っていましたが、言えないことが多すぎて、だんだん生徒さんに嘘をついているような罪悪感が芽生えてきました。

「罪悪感から逃れたくてカミングアウトしてしまいたい」という気持ちと、「みんな私に中国武術を学びにきてくれているのに、こんなことを話したら迷惑をかけてしまう」という気持ちのループで何年も迷いました。

結局、今頃になってカミングアウトしている訳ですが、しかし心は軽くなっています。

罪悪感も少しずつ薄れてきています。

誰かのことを悪くいう気持ちは全くありません。

自分も含め、誰もが一生懸命に生きてきたと思うので、未熟や反省ということばも使いたくありません。

それよりも今、世界のどこかに私と似た境遇の人がいて、弱って、痛くて、苦しくて、自分を責めて責めて、苦しい以外何も考えられなくなってしまっているのなら、「私も同じだから、一人じゃないよ」と伝えたいです。

そして、そんな風に弱っていた私でも、中国伝統武術界という世界を知って、社会的問題は解決しなくても、魂の「尊厳」だけは守れた、ということを伝えたいのです。

「私も同じだから、一人じゃないよ、苦しくても尊厳を失わないで!」

格好つけましたが、半分は誰かにそう言ってもらいたいという気持ちもあります。

真夜中にトラック内に放置される

私が小学生の頃、母にトラックの長距離ドライバーの恋人ができた。

ある日、母は私と弟に「小旅行に連れて行ってやる」と言った。

私と弟は少し嬉しかった。

トラックで迎えに来た男の人の顔は憶えていない。

ただ、男の人がトラックの荷台のドアを開けて、中に入っていた沢山の魚を見せてくれた時、カチカチに凍った大量の魚たちが怖かったことは憶えている。母は面白がっていたが、私と弟は怖かった。凍った魚の眼は私たちを恨んでいるように見えた。

トラックの運転席と助手席の間は広くて、私と弟の小さな身体はすっぽり入った。

弟は少し怖がっていたので、手を繋いであげた。

車外の景色はだんだん暗くなっていった。

そして真っ暗になると、男の人はどこかにトラックを止めた。

母は私と弟に、「お母さんと〇〇さんは少し出かけてくるから、お前と弟は大人しく車の中にいなさい」と言って、男の人と一緒にいなくなってしまった。

たぶん2時間以上経った頃、弟が怯えだした。

「ねぇちゃん、お母さんはどこ行ったと? もう帰ってこんと? 俺怖え」

弟は泣き出しそうになっていた。

私も不安で怖くてしかたなかったけど、弟を怖がらせたくなかったので、いつものように嘘をついた。

「お母さんは、私たちに美味しい食べ物を買いに行ったから、いま探しちょると思う。やっくんの好きな食べ物を買おうと思って一生懸命になっちょると思うから、心配せんでいいよ」

そういう内容のことを話した記憶がある。

弟は、たぶん「うん」とだけ言って黙った。

2人で真っ暗なトラックの車内で、身体を硬くしてジッと待った。

数時間後、母と男の人は帰ってきた。

楽しそうにしていた。

私も、たぶん弟も、母を傷つけるのが怖かった。

辛くても、不安でも、怖くても、普通にしていれば母を傷つけなくてすむ。

それだけは子供心に分かっていた。

心、体、過去、現在、未来が一致する

私が母親に虐待を受けたことにより発症したPTSDの治療のために、2番目に採用したのは太極拳だった。

修業をして講師にまでなった。

生きるためだ。

太極拳の練習をしていると、心と体と周囲がバラバラになっている感覚が、一体になる心地良さがある。

教室を始めたばかりの頃から、教室を閉めるまでずっと一緒に鍛錬を続けてくれた仲間と感じた心と体の共鳴は、ささやかだけれども私にとっては確実に幸せな時間だった。

人は、愛で繋がっていなければ生きていけない。

元旦なのに悪夢でお目覚め

母親に責め立てられる夢を見て目が覚めた。

もう30年は苦しめられてるよ。

いい加減に消えて欲しい。

これがあると日中に頑張ったり充実感を感じたことがゼロになる。

ゼロどころかマイナスの気分で夜中から1日のスタートを切らなければならない。

睡眠で回復するどころか寝ないほうがマシ。

でも今まで生きてきた。

起きてる時間が現実なんだ。

起きてる時間だけでも幸せに生きるんだ!

畳味のポテトチップス

私は中学1年生で本格的に不登校になった。

母は「不登校の罰」「働かざるもの食うべからず」と言って、何日も私に食事を与えてくれなかった。

1日や2日ではない、1週間近く食べ物を与えられなかったことが何度もある。

冷蔵庫の中の食材を全て仕事先のスナックに持って行かれたことも、数えきれないほどある。

いつも弟の夕食しか用意されていなかった。

私は砂糖や缶詰を探して食べていた。

空腹が苦しかった私はある時、母が夜のスナックの仕事に行っている間に、台所の炊飯器から「どんぶり」にご飯を山盛りにして塩を振り、ラップをかけて学習デスクの一番大きな引き出しに隠した。

昼間の間は母が家にいて食事を摂らせてくれないので、お腹が空いて我慢できなくなったら食べようと思っていた。

その非常食も、私の寝ている間に母に気づかれたのか、なくなっていた。

あの時は空腹で目が回った。

布団の上でぐったり横になるしかなかった。

畳の上にポテトチップスのかけらが落ちていた。

幻覚かと思った。

口に入れてみたら畳の味がした。

たぶん、弟の食べこぼしだったと思う。

あの時の飢餓感と、畳の味がするポテトチップスは一生忘れられない。

学校に行かないと、そういうことをされてもいいのだろうか?