孤立無援になる恐怖

例えば、素晴らしい映画を観たときの感動を、その映画を観ていない人に伝えるのが難しように、トラウマ体験をしてしまうと、周囲の人に自分の不安や恐れといった感覚を理解してもらうことは、ほぼ不可能に近くなります。

映画であれば、その映画を観たことのある人を探したり、インターネットでレビューを検索すれば、同じ感覚を持つ人を見つけることは可能だと思います。

しかし、深刻な家庭の問題であったり、聞くに堪えないトラウマ体験であれば、まず話を聞いてもらえる人を見つけること自体、大変困難になります。

私以外にも、この世界にはたくさんのPTSDを抱えている人がいると思います。

そして、PTSDを抱えている多くの人たちは、精神的または社会的に孤立無援になっているケースが多いと思います。

常に周囲を観察して「普通の人」を装えば、表面上の人間関係は辛うじて構築できるかもしれませんが、PTSDの症状をひた隠しにしながら生きていかなければならない人生は、苦痛でしかありません。

人間は、周囲の人々の共感や理解、そして愛を感じることで、脳が活性化し、心身の生命活動を向上させ、健康を維持することができるそうです。

PTSDを抱えている人は、その共感や理解を得ることが大変困難になります。そして慢性的な「愛情不足」の状態に陥ってしまいます。

私は、幼い頃から母親に人格否定をされて育ちました。小学校では同級生に「気もち悪い」「頭のおかしなやつ」「変人」「妖怪」と呼ばれていました。

もちろん、人生は不幸なことばかりではありません、ごくまれにですが楽しいこともあります。しかし、その楽しいという感覚を表現すること事態に恐怖を感じ、PTSDの症状が出てしまいます。

簡単に言うと「感情の負のスパイラル」と言うのかもしれません。

だから、PTSDだけでなく、マイノリティな問題を抱えている人たちは、何とか社会に適応しようと通常の何倍もの努力をします。

しかし、その努力は往々にして報われることはなく、疲れ果てたその先に「死」若しくは「死んだように生きる」という休息を求める気持ちが湧いてきます。

苦痛な体験を積み上げた結果、世界は無理解と危険に溢れている、自分は絶対に救われることはない、生きている限りこの苦痛に耐えなければならない、と脳が錯覚を起こしてしまうのです。

私にも過去「生と死」という葛藤がありました。

しかし、当時若かかった私の体は、未来を否定する脳に対して、必死に「生きたい」と訴えていました。

孤立無援であっても、自分で自分に寄り添うことはできます。私は、その声を大切に聞いてあげました。

「生きたいんだ、動きたいんだ」

私の体はそう言っていました。

その衝動を実行に移したことで、太極拳に出会いました。

それからは長い道のりではありましたが、太極拳を通じて中国伝統武術界の世界にたどり着くことができ、共感や理解、そして師弟愛という素晴らしい愛を得ることができました。

その体験もまた、特殊ではあるのですが、冒頭で述べた「素晴らしい映画を観たときの感動は、かならず誰かと分かち合える」ように、伝統に基づいた思想や文化を学ぶことは、孤立無援の恐怖を解決してくれる、非常に良い選択肢だと思っています。

そして、医学の発展ともに、PTSDの治療も可能な時代になってきました。

PTSD治療の主軸となるのは「カウンセリング」だそうです。2018年2月より、私はPTSDのカウンセリング治療に取り組んでいますが、たった数度のカウンセリングで「孤立無援とは幻想だった」と再認識することができるようになりました。

どんな方法でも構わないと思います。心と体、自と他、このバランスを整えることが孤立無援の根本的解決法なのだと思います。

2018年3月13日 追記(未完成 執筆中)