日本中国伝統功夫研究会

天人合一の境地

 2004年11月中旬。

 「如果你愿意、星期六到公園咱们一块練功吧」
 (もしあなたが望むなら、土曜日に公園に来なさい。私の仲間達と一緒に練習をしよう)

 いつものように『北京市・志強武館』での2時間の授業を終え、帰り支度のために靴を履き替えているとき、陳項(チェンシィアン)老師は、そう話しかけてくださいました。

 (公園? 今度はどの公園? どうやって行くのだろう?)

 極度の方向音痴な私は、陳項老師のご好意を喜ぶべき瞬間に、どうやって公園に辿り着けるだろうか、という心配をしていました。

 今回は、中国人の友人に頼むわけにもいかない雰囲気です。

 私は必死になって陳項老師に、公園への行き方や、待ち合わせの時間や、緊急連絡のたの電話番号をノートに控えているうちに、だんだん嬉しさが込み上げてきて、やっと、

「老師、我想去! 謝謝!」
(老師、私はとても行きたいです。ありがとうございます)

という言葉が出てきました。

(陳項老師のプライベートな練習会へ参加できるなんて、なんて光栄なことなんだろう!)

と思うと、今にも踊りだしそうになる胸の高鳴りを押さえ、約束の土曜日までの数日間、私は狭い旅館の中を、ウロウロと歩き回りながら過ごしました。

 約束の日の朝、私は待ち合わせの場所の地下鉄の出口に早く到着し過ぎてしまい、立ち尽くしていました。

 しばらくすると、公園を囲む柵沿いから、陳項老師とお弟子さんのアメリカ人(マイケルさんという方)が歩いてきました。

 私はまだ中国語がほとんど聞き取れなかったので、お二人が何をお話されているのかは分からなかったのですが、陳項老師とマイケルさんと一緒に、公園の中をゆっくり歩いていると、それだけで楽しくて嬉しくて、自然と笑顔になっていました。

 辿り着いた練習場所は、木立の中の平地で、明らかに普通の場所とは雰囲気が違いました。(中国の公園内には、どこも幾つかの練功スポットがあります。毎日ほうきで落ち葉やチリを掃いている練功者もいて、聖域のような凛とした空気が漂っています)

 その日から、私は毎週土曜日に陳項老師と数人の仲間の皆さんと一緒に、公園で混元太極拳の練習を行うようになりました。

 公園にいらっしゃるときの陳項老師は、武館でお会いするときより、ほんの少しリラックスしているような気がしました。

 そのお姿を見て、私は(きっと大地を踏んで、たくさんの樹々と共に呼吸をするのが気持ち良いのだろう)と思いました。

 すっかり公園での練習が気に入ってしまった私は、毎回練習に来ているマイケルさんの中国語も、気分が良いせいか少しずつ聞き取れるようになり、スランプもいつの間にか忘れかけていました。

『北京市・志強武館』の陳項老師の混元刀に見た天人合一の境地

 そんなある日、陳項老師は公園に太極刀を持って来られました。

 マイケルさんと短く言葉を交わした後、陳項老師は少し広い場所に移動され、いつものように静かに「降気洗臓功」を行った後、陳式心意混元太極刀の套路を始められました。

 私は、ただ何気なく見ていました。

 短く刈られた頭で、飾らない服装で、いつも笑みを湛えていて、深い声を持つ陳項老師が太極刀を空気に滑らせていくのを、私は、ただ見ていました。

 そして、その時、背景が消えました。その境地が私の目の前に突然現れたのです。

 見えているのに見えない、聞こえているのに聞こえない、動いているのに動いていない、そこにあるのに、ない。

 それは、私がずっとずっと先に、いつか中国で体験するのだろう、と思っていた「天人合一」の境地でした。

 私は、ただ、ただ、「ああ」という声にならない音を漏らしながら、自分のそれまでの人生の中で一番美しかった涙を流し、歓喜の響きのように笑いました。

 完全に自然と一体となっている「生命」が、そこに体現者として現れたのです。

 東京の一人暮らしの小さな部屋の中で、心の闇と向き合い、そして知った何かにつながる音、安心できる世界、そしてそれを証明するために学び始めた太極拳「生い立ちと半生」を参照)、日本から遠く離れた中国北京の小さな公園で、私はまたあの小さな部屋で見つけた境地を発見したのです。

 私には、それだけで十分でした。

 温かい、豊かな世界が、ある。

 そして痺れるような感動を全身で受け取りながら、ふと感じたのです、

 「この動きは何だろう? 太極拳とは少し違うような気がする…」

 そのときは、それが何なのかまだ分かりませんでした。

 空中を滑るような刀、水中を泳ぐ魚のような滑らかな身法、温かい空間に包まれた法則と自由の躍動。

 ずっと後に知ったのは、それは陳項老師が習得していた、八卦掌の動きの風格だったのです。

 つづく

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