日本中国伝統功夫研究会

私たちの会は八卦掌の鍛錬を通じ「天人合一」の境地を学ぶ会です

初・太極拳大会出場

第二届中国陳家溝国際太極功夫精英賽  2006年8月中旬、私の初の太極拳大会出場の舞台となった『第二届中国陳家溝国際太極功夫精英賽』が、中国河南省鄭州市で開幕されました。

 大会前に女性特有の月に一度の腹痛に見舞われ、全身の筋力と精神力を一時的に失った私は、泣きじゃくって「出場しない!女の子には武術なんて向いてない!」と癇癪を起こしたのですが、韓国のお兄さん達に“なだめすかされ”、何とか大会初日を迎えました。

 大会は開幕式を含めて3日間に渡り開催され、私は最終日に2種目、ジュアン兄さんは2日目と3日目に一種目ずつ、という予定になっていました。

 開幕式の前日までは、私は緊張してワナワナと震えており、それを励ます韓国ブラザーズ、という構図になっていたのですが、開幕式の当日になると、なぜか見事に正反対の状態になっていました。

 ジュアン兄さんは朝から何も食べられず、ヘソ兄さんは私の代わりに緊張し始め、当の私はケロッとしていました。

 そう言えば、私は本番に強かったのです。

 小学生の頃は、短距離走が得意だったのですが、しかし運動会の練習では、いつも二位でした。どうしても一番足の速い同級生に勝てないのです。確かにその娘は私より身体的能力には上でした。

   しかし本番になると、なぜか私は最高のスタートが切れるのです。あの「位置について、よ~い・・・、ドン!」、この「・・・」の時間に、体の全細胞がフル稼働する感覚を、子供ながらに知っていました。そして、練習ではいつも一位の同級生はメンタル面が弱かったのか、肝心の“スタート・ダッシュ”で一歩出遅れ、そのショックが後半の粘りに影響して、私が最終的にごぼう抜きしてしまうのです。

 別にわざと練習で手を抜いている訳ではなかったのですが、その娘には誤解をされ嫌われてしまいました。

 そういう特性もあるのか、私は太極拳大会出場の自分の出番までの時間が迫れば迫るほど、気分は落ち着いてきて、食欲も湧き、むしろ「ワクワク」してきました。

 だって競技が終われば、あの“大会前”という緊張感から解き放たれるのです。

 恐らく、その時の私は『初大会出場』というプレッシャーを超える程に、オーバーワークをしていたのでしょう。非効率的な無理な練習は、身体に良い影響を与えません、下手をすると怪我をします、しかし少なくとも「ここまでやったんだ!」という自信には繋がります。

 大会の会場に入り、一番目の種目『伝統陳式太極単剣』の競技の順番が回ってきて『上場』した時、私の心の中は、すでに澄みきった湖のような静寂で満たされていました。

2006年8月中国河南省鄭州市 太極拳大会初出場 横山春光

 私は近視&乱視な上に裸眼なので、いつもはボンヤリとしか周りが見えていないのですが、太極剣の起勢を始めた瞬間、会場内の全てが手に取るように見えるような気がしました。

 演技の数分間、私の頭の中にあったのは、ト文徳老師の「眼じゃ、眼法じゃ!敵を見るのじゃ!」という声の響きと、(中国語で手続きをして、競技のルールも把握して、病気にもならず、無事に大会に出場できてよかったなぁ・・・)という思いだけでした。

 練習中はダルくて重くて、思うように動かなかった体が、本番では軽々と動けました。

 ト文徳老師の「常日頃から厳しい鍛錬をしとかんと、大会で発揮できんじゃろうが!」という言葉が、剣先に響いていました。

 最後の型である“太極剣還原”を終え、一礼をして『下場』し、荷物の見張り番をしてくれている、ヘソ兄さんの所へ行く途中、

 ・・・

 「横山さん、高得点だよ!優勝じゃないの!」

 誰かが、私の肩を叩いてそう言っているような気がしました。

 私は荷物の事しか考えていなかったので、ヘソ兄さんを探しに行くと

 「優勝だよ!」

 と、ヘソ兄さんが笑顔で私に言いました。

 私はまだ何の事を言っているのか解からなかったので、「え、ジュアン兄さんが優勝したの?」と聞いてみると、「違うよ、みーちゃんが剣で最高得点だったんだよ!」と言っていました。

 (そんなバカな!?)

 転ばないで、制限時間内で演技を終わらせた事だけで、大達成感を感じていた私に『優勝』という二文字は、あまりにも非現実的でした。

 何故かと云うと、私の年齢の枠の『女子青年組』は外国人の人数が少なかったので、私は中国人の選手と一緒に競わなければならなかったのです。

 共に競技した中国人の女性達は逞しい方が沢山いたので、まさか自分が入賞するとは最初から念頭に無かったのです。

 ジュアン兄さんは外国人枠で競い、二種目とも優勝しました。

 ジュアン兄さんは実力派で、最初から優勝を考えていたので、金メダルを首に掛けて貰った時も「これで韓国の師匠に面目が立つ」と安心していました。

 大会最終日の閉幕式で、各種目の優勝選手の表演があり、私も出るように主催者側から要請があったのですが、私は辞退しました。なんだか私はまだまだそんな晴れ舞台に立って良い程には成長していない様な気がしたのです。

 河南省武術協会の会長に金メダルを首に掛けて頂いて思った事は、ト文徳老師や、日本の山口師匠や、兄弟子姉弟子さん方。そして、日々私を支えてくれた、韓国の同志たちや、“なんだかんだ”言って私を上達させてくれる表演隊の男の子達や、太極拳館の教練方や、近所の八百屋のおばさんや、アパートの大家さん。私は、とてもとても多くの人達に支えられて、この金色のメダルが自分の手の中にあるような気がしたのです。そして、そういう方々への感謝の気持ちの方が、金メダルよりも遥かに重かったのです。

第二届中国陳家溝国際太極功夫精英賽  ジュアン兄さんは勿論、韓国の師匠の為に立派に閉幕式の優勝選手の表演の舞台に立ちました。それが恩返しになるからです。

 そして、閉幕式が終わり皆さんが帰り始めた頃、ヘソ兄さんがやっと気がついて、私の初大会出場の記念写真を撮ってくれました。

 私たち3人が外へ打ち上げの食事に出かける途中、会場の出口の所で、主審判員を務めていた方に呼び止められました。

 「あなた、横山さんだね、いや、美麗だった、君の剣はもっと伸びるだろうから、これからも“下功夫”(精進するの意)しなさい!」

 そう言って、笑顔で励まして下さいました。

 太極拳館の鄭冬霞(ジェン・ドンシィア)教練も、「ふふっ、私は優勝すると思ってたわよ、でもそう言うと横山さんがプレッシャーに感じると思って言わなかっただけよ。でも、これで終わりではないわ、もっともっと大会に出て、自分を磨き上げなさい!」

 大会は「祭り」の様なものです、そして祭りの後は、必ず寂しさが漂うものです。

 私は河南省へ来たばかりの頃に見に行った、2年に一度開催される通称「年会」と呼ばれる、陳式太極拳愛好者なら一度は必ず出場してみたい!と願う、更に大きな大会に出場する目標を立てました。

 その夢を語ったのが、韓国のお兄さん達との別れの、最後の食事の時でした。

 私たちは最後の夜、初めてビールを酌み交わしました。翌日の別れの話はしませんでした。大いに笑い、大会の成績に喜び、将来の希望を語り合いました。

 「日本へ行って、みーちゃんの師匠に禅と太極拳について教えを請いたいな、いつかきっと行くよ、ジュアンと一緒に、日本へ。」

 ヘソ兄さんが、帰り際にそう呟いていました。

 翌日、2人は太極拳館に挨拶をしに行き(私が通訳を務めました)、そして鄭州空港へ向かうタクシーを拾う為に、通りに出ました。

 ジュアン兄さんは、顔をグシャグシャにして泣いていました。ヘソ兄さんは、また明日すぐ会えるような優しい顔で、ただ笑っていました。

 私は、胸が張り裂けそうになりましたが、いつもの様に「ほらほら2人とも、早くタクシーに乗らないと飛行機に間に合わなくなるよ!乗って乗って!」と元気なふりをしました。

 ヘソ兄さんは、殆ど嗚咽しそうなほど泣きじゃくっているジュアン兄さんの肩を抱き、タクシーに乗ると、やはり眼を潤ませて「頑張れ!みーちゃん、負けるな!韓国から応援してるよ!」と言って手を振って、そして、タクシーはそのまま行ってしまいました。

 私は、泣きませんでした。

 明日からまた練習をしなければなりません。その為に、ご飯を食べなければなりません。だから食堂へ行きました。

 お昼ご飯を頼んで、一人で全部食べました。

 食べながら、気がついたら泣いていました。店員さんに気づかれないように、下を向いて、ボタボタご飯に涙を落としながら、全部食べました。

 向かい側にいつも座っていた、ジュアン兄さんも、ヘソ兄さんも、もう居ません。

 夏は終わったのです。

 でも、私の修行はまだ終わっていません。私には、まだまだ中国で学ばなければならないものが、沢山、沢山、あったのです。

つづく

ニーハオ、北京!

一度目の帰国

再び北京へ

二度目の帰国

太極拳発祥の地 -河南省-

三度目の帰国

太極拳発祥の地 -河南省-

八卦掌への道

八度目の帰国

八卦掌への道(中盤)

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