日本中国伝統功夫研究会

私たちの会は八卦掌の鍛錬を通じ「天人合一」の境地を学ぶ会です

精神力と体力の限界

精神力と体力の限界  2006年9月

   私
   は
    、
   精
   神
   力
    、
   体
   力
    、
   共
   に
   限
   界
   で
   し
   た
    。

 先の初大会出場を果たした後、日本の師匠より「帰国して少し休みなさい、ちょうど秋に表演会があるから、春光さんも参加しなさい」と仰って頂いたのですが、その話を帰国したばかりの韓国の同志達に話した所、「3人で共に参加できないだろうか?」という話になったので、そう日本側に伝えると、断られたのです。

 理由は、

 「今、日本では韓流ブームが凄い勢いだから、春光さんが中国の太極拳大会で金メダルを獲って、韓国人の男性を2人連れて日本に帰国したら、悪い風評が流れるから・・・」

 と言うものでした。

 私の将来を案じてのご配慮だったと、今では心より感謝できますが、その時の私には「悪い風評」という意味が解りませんでした。

 それ程、シンプルでストイックな日々を送っていたからだと思います。

 初大会出場後、私に残ったものは、同志達と別れた喪失感と、ただの金色の物体(メダル)と、延々と続く終わり無き修行の日々でした。

 生まれて初めて出会えた同志達との別れは、幼い頃から友達ができなかった私にとって、想像していた以上の大打撃でした。

 金色の物体(メダル)は、壁に掛けて三日後に押し入れに放り込んでしまいました。それを見て「ニヤニヤ」しそうになる自分が、堪らなく嫌だったからです。

 相変わらず厳しい鍛錬を強いてくるト文徳老師から、逃げ出したくなりました。

 でも、逃げる場所はありません。

 「悪い風評」なるものが存在するという場所に帰りたくなかったのです。

 (当時の私には、日本の価値観が解からなくなっていました。どうして韓国の素晴らしい同志達と交流をするのが「悪い風評」になるのか、理解できなかったのです)

 ジュアン兄さんは、日本語が流暢になったヘソ兄さんを介して、私にメッセージを送ってくれました。

 「みーちゃんは“横山春光”なんだよ、そして師匠がいるんだよ、僕らは同志であって師弟関係ではない、どんな事があっても日本の師匠の言葉を守るんだ。他の人たちが言う事は気にしなくていい、でも師匠の言葉は聞くんだ。それは未熟な僕らにはまだ解らない“道を歩む”という事なんだよ。そして、これから先、“横山春光”として道に迷った時、教え、助け、理解し、導いてくれる、それは師匠にしかできない事なんだ、僕らでは駄目なんだ」

 私は辛かったですが、この言葉の意味は解りました。

 情に溺れていては、同志ではありません。志を同じく行く者だから、同志なのです。

 しかし、私は・・・、もう本当に、精神力も体力も、限界でした。

 ある日、いつもの様に自分を叱咤して、ト文徳老師のご自宅の前の練習場所へ行き、ト老師の顔を見ると、突然体が震え出しました。

 既に何度か経験していた『強度のストレス状態』というやつです。

 不意打ちを受けた様にその場に崩れ落ちそうになった私は、寸前で最後の気力を振り絞り「ト老師、最近体調が思わしくありません、少し国へ帰って休みます」と言って、自宅のぼろアパートへ帰りました。

 千代の富士の引退会見とは程遠いですが、未熟ながら、その時の私は本当に振り絞っても、振り絞っても、一粒の気力も出てこなかったのです。

 東京へは戻りたくなかったので、死んだような顔をして、実家の宮崎県に帰りました。

 荷造りをした時、悩みに悩んだ末、「これも親孝行だ」と思いスーツケースに放り込んだ金色の物体(メダル)を母に見せると、母は大喜びをし、「近所の公民館で敬老会があるげなから、みんなに太極拳を見せてやってくれんけ!」と頼んできましたが、私は「表演服がないから、できん・・・」と言って断りました。

 私の母は昔から無口でした。私の様子を見て、ただ事ではない状態だと解ったようでしたが、何も言いませんでした。

 私は毎日、実家の元は私の部屋だった『猫部屋』で、猫達と寝たきりになっていました。

 何も食べない私に、母は私の好物のうどんを作ってくれましたが、食べ終わるのに難儀しました。

 母なりに心配してくれていたのですが、無口で話下手な母は、何も聞いてはきませんでした。

 私も何も喋りたくなかったので、母の無口さは有り難かったのですが、やはり母心と云うのは子供の苦しみを見過ごせないようで、「美味しい物を食べれば元気になる!」という“何を根拠にそう思ったのか不明”な持論を持っている母は、私を地元のちょっと高級な『お寿司屋さん』に連れて行ってくれました。

 母に心配を掛けたくなかったですし、そういう表現しか出来ない母を不憫に思ったので、どうしても元気な姿を見せたい一心で、私は母が頼んでくれたお寿司を喉に無理やり詰め込みました。

 お寿司を一貫食べ終えるごとに、母の緊張感が和らぐのが解るので、私は何貫も何貫も食べ、そしてトイレに行って吐きました。

 吐いては食べ、吐いては食べ、そして「お母さん、ありがとう」と言って、一緒に家に帰りました。

 それでも寝たきり状態が一週間以上続いた私を見た母は、ある日、『猫部屋』の猫より無気力になっている私に十万円を渡してくれ、「あんた、韓国に行ってきね!気晴らししてきたらいいっちゃが!ついでにキムチの作り方も教えて貰ってきてくれんけ?」と言ってくれました。

 高校を卒業して上京後、初めて母が私にお小遣いをくれたのです。私の母は躾に厳しかったので、私は我ながら相当に酷い状態なんだと思いました。

 ・・・

 ジュアン兄さんと、ヘソ兄さんは、韓国のソウルに近い空港で私を迎えてくれました。

 グチャグチャだった私の髪を見て、韓国一の美容院に連れて行ってくれ、綺麗なストレートの髪にしてくれました。

 そして、「ねぇ、みーちゃん、今一番何がしてみたい?僕らは中国で沢山みーちゃんにお世話になったから、何でも付き合うよ!」と言ってくれました。

 私は朦朧とした意識のまま、

 「うん、わたしね、太極拳と八卦掌を元気一杯練習したい・・・」

 「あの~、みーちゃん、武術関連以外の発想は浮かんで来ないのかな~?」

 私には他にやりたい事なんて思い当たりませんでした。

 韓国の街には日本人の留学生が沢山いました。

 みんな綺麗な服を着て、楽しそうで、沢山友達がいて、一緒に歩いていて、羨ましく思いました。

 (なんで、わたし、テコンドーを学ばなかったんだろう・・・)

 などと、訳のワカラナイ事まで考えました。

 そして韓国ソウルの『ビジネス・ホテル』に連日引き篭もって、「ボー」っと韓国語で何を言っているのか解らないテレビ番組を観ていると、ある日突然、中国の映像と中国語が眼と耳に入ってきました。

 それは、中国大陸の僻地で、厳しい環境の下、その土地を離れずに必死で生活をしている中国人の番組でした。

 私はその映像を観た瞬間、どうしようもなく恋焦がれる想いに襲われました。

 (なんで?どうして?韓国の方が清潔で楽しくて人も優しくて良い事ばかりなのに、どうして埃と排気ガスまみれの中国の生活が恋しくなったりするの!?)

 理由なんて解りません。

 とにかく、突然「やる気」が復活したのです。

 そして同時に、これで本当にジュアン兄さんと、ヘソ兄さんとの“お別れ”になると思いました。

 「私、戻るね!」

 韓国のお兄さん達は、既に解っていたような顔をして、空港まで送ってくれました。

 中国行きの飛行機に乗る前に、韓国の空港で2人に手を振ったのが、正真正銘、初めて出会った同志達との最後の別れでした。

 あれから、お互い一度も連絡をとっていません。

 それぞれが、それぞれの“歩むべき道”を歩むのです。

 私は河南省へ向かう飛行機の中で「中国伝統武術の奥に潜んでいる物を知りたい!」と、初めて明確な方向性が見えて来たような気がしました。

 それまでは、ただ闇雲に練習をして、上達をする事しか考えていなかったのです。

 (これからは、方向性を正そう!)

 私は、何度も何度も挫折をして、その度に立ち上がり、そして少しずつ強くなっていったのです。

 “縁”は、つながっていました。

 2006年10月17日、私が河南省へ戻ってから間もなく、河南省鄭州市で「第二届・世界伝統武術節」が開催されたのですが、私はその大会の存在すら知らなかったのでエントリーは間に合わず、仕方が無いので(将来の参考資料にでもしよう)という軽い気持ちで撮影に行った所、その大会には偶然にも現在の師匠である麻林城(ま りんじょう)老師が出場しており、私はその映像をビデオ・カメラに収めていたのです。

第二届・世界伝統武術節(麻林城老師)

 そして、その映像の存在に気がついたのは、それから一年以上も後の事になるのです。

つづく

ニーハオ、北京!

一度目の帰国

再び北京へ

二度目の帰国

太極拳発祥の地 -河南省-

三度目の帰国

太極拳発祥の地 -河南省-

八卦掌への道

八度目の帰国

八卦掌への道(中盤)

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