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伝統程派八卦掌

八卦掌第五代継承者 麻林城(ま りんじょう)老師

日本中国伝統功夫研究会 淺田美代子

八卦掌開祖 董海川(とうかいせん)祖師

八卦掌開祖
清嘉慶元年-1796年-1882年

河北省文安県朱家務に生まれ、幼少より武術を学ぶ。

青年時代すでに高い武功を持ち、各地の高名な師を訪ね有名な山や川を渡り中国全土を旅する。

董海川は、師を求める旅の途中で、江蘇と安徽の間の深山の密林の中で、異人に遭遇し卓越した高度な武功を授かったと伝えられている。
苦習数年の後、左旋右転・千変万化の技撃の術に、道家の修練術を結び付けた独創的な武術を編み出した。これが現在の「八卦掌」である。
この頃、董海川は非常に高い功夫を持っていたが、未だ人に見せる事はなかった。
修練を終え山を下りた董海川は清朝の睿王府に長年勤める事となった。そしてある深夜、練功を行っている姿をうっかり王府の管理人の全凱亭に発見される。それを耳にした王府院を警備する総主任(名:沙回回)は、董海川に腕試しを申し出るが、まったく手も足もでなかった。彼の奥深く計り知れない高い武功を知った沙回回は、彼に師事し八卦掌を学ぶ。
その後、八卦掌は広く世に知れ渡り、各門・各派と数えきれないほどの武術の達人が腕試しに訪れたが、誰一人として董海川に勝つ者はいなかった。
その強さは清朝末期に北京城の武術界に八卦掌の名を刻み込む事となり、形意拳・太極拳と並び、中国の三大内家功夫の一つとなった。
【有名な弟子】
 程廷華、尹福、梁振甫、劉風春、宋永年、魏吉、馬維祺、史立卿、樊鳳勇、など。

八卦掌第二代継承者 程廷華(てい ていか)
程派八卦掌第創始者
1848年-1900年 8月14日
通称「眼鏡程」

崇文門外で眼鏡店を開設し、その後大きく発展させた為「眼鏡の程」と呼ばれていた。
河北省深県の程家村に生まれ、幼少より摔跤(中国式レスリング)を好み、その技は非常に巧みであった。後に董海川祖師に師事し八卦掌を学ぶ。
正直な人柄で、真面目に練功を積み、悟性が高かった程廷華は、董海川祖師の好感を深く受け、その秘伝を得る。後に董海川の得意弟子の一人となった。
修練を終えた後、北京崇文門の外で武館を開き弟子を得る。
当時、彼に学んだ者は数多く、その中には「神槍の劉徳寛」「単刀の李存義」など、当時の武術界において非常に有名な武術家もいた。また「孫禄堂」「李文彪」「馮俊義」などもその弟子であった。
程廷華の名と人柄を慕って訪れる一般の学生も多く、程廷華は自ら体得した八卦掌と董海川から授かった武功を広く彼らに伝えていた。
程廷華の武功は奥深く、その技は非常に優れており、八卦掌の発展に多大な貢献と影響を及ぼし、八卦掌の重要継承者となった。
彼の学んだ掌法が他と異なった為、後に八卦游身連環掌とよばれ、現在に至り程式掌法となる。
【程廷華の正統継承者】
程有信、程有龍、程有功、程有生、李文彪、馮俊義、孫禄堂、など。

八卦掌第三代継承者 程有信(てい ゆうしん)
程派八卦掌第二代継承者(程廷華の次男)
1895年―1970年 6月29日 午前10時
通称「矮爺」

体が小さかった為「矮爺」と呼ばれていた。また、当時の北京武術界の中で三大老拳師の一人と呼ばれていた。
幼少より武術を好み、程廷華の教えを深く受け、家伝の八卦游身連環掌の基本功法を授けられた。
幼少より日々練功する父(程廷華)のもとを離れず、程式八卦掌創始人である父の武功の風格“行如龍、発力如虎、換式如鷹”など、その卓越された身法の全てを心と身体に深く焼き付けた。
父が死去した後、天津に住む兄の程有龍のもとに移り、さらに練功の日々を送った。武功は大いに高まり、同時に大槍の劉徳寛、単刀の李存義の武功の精華を得て自身の功夫を更に高める。
程有信(てい ゆうしん)練功風景  程有信は非常に努力家で、毎夜一日も欠かすことなく練功に向かい長年精進し、卓越した武術の功夫を身につけた。
繰り出す技は稲妻の如く早く、相手は防ぐ余裕も持てなかった。しかし当時、程有信は「以武会友」(武の道を歩み友と交る)を重んじていた事から、北京と天津の武術界で彼に悪評を立てる者はいなかった。
1958年夏、北京で全国武術大会が開催され、大会終了後、東北チームの監督及び教練数十人が程有信のもとへ訪問し腕試しを試みた。程有信が構えた瞬間、教練は空中に舞い上がり、程有信は次の瞬間その手を掴み引き戻した。驚いた教練は学生と共に跪き、程有信に師事したいと申し出た。
当時、程有信は北京の公私合営のアクセサリー店「現在の北京通州区“北京花絲工廠”」に勤めており、そこで働いていた若者が今も健在で、程有信の素晴らしさを語っている。
程有信は生涯弟子に対して非常に厳格であり、技の伝授は慎重を極めた。特に家伝の八卦掌の精髄とも呼べる奥伝は宝とされ、軽率に人に伝える事はなく、1940年、ある外国の軍人が大金を積んで程有信の八卦刀法を見たいと申し出たが、その望みは叶わなかった。
生涯で百人近い弟子に八卦掌を伝授するが、最後に正式な入室弟子となったのは僅か数名である。

【正式な入室弟子】
 許立坊、孫志君.許繁増、段炳章、銭文章、張栄利、など。

八卦掌第四代継承者 許立坊(きょ りつぼう)
程派八卦掌第三代継承者
1934年―2001年 8月15日 午前9時

河北省清河県武家那村に生まれる。
幼い頃に従軍中であった父を亡くし、その寂しさを紛らわす為、玩具代わりに刀や棒を振り回し遊ぶのを好んだ。
1950年、同郷の武術家である呉炳瑞に師事し、形意拳、八卦掌を学ぶ。
呉炳瑞は若い頃、軍閥の張宗昌の護衛に長年についていた。また程有龍と兄弟の契りを結び八卦掌を学んでおり、かつては河北形意拳の名手であった。また呉炳瑞は軽功に優れ、一飛びで六歩はある高い壁を越えることができ、人々に“六歩高”と呼ばれていた。
後に、北京安定門外小関北里に定住した許立坊は、呉炳瑞より程派八卦掌第二代継承者である程有信に八卦掌を学ぶようにと推薦され、1962年に程有信に正式に認められ関門弟子(最後の弟子)となる。
許立坊は非常に正直な人柄で、真面目に練功を積み、きわめて努力家で、師に対して実の父のように尽くし、師の奥義を伝授された。
特に文化大革命の頃、武術の鍛練が固く禁じられた為、多くの拳法家の武功が荒れ果て、師弟の間の行き交いも少なくなっていたが、許立坊は幼少に父を失っていた事から、程有信を父のように慕い、そばを離れることはなく、自らの少ない給料の一部を恩師である程有信に渡していた。晩年に年老いて孤独で貧困な状態にあった程有信の、精神と物資の支えになったのである。後に、程有信は家伝であった八卦掌の精華を許立坊に授けた。
程有信が亡くなった後、許立坊は恩師の教えをしっかりと心に刻み、日々懸命に鍛練する。またその頃、樊大姑(董海川の得意弟子の樊鳳勇の娘)の熱心な指導を受けた。同時に大悲拳の名人、奇雲和尚(俗称:史正剛)と深い交流を持ち、大悲拳の内功心法を得る。
当時の武術界の中で他の門派の特徴を吸収した許立坊は、天性の悟性の高さから、更に自らの武学を充実させていった。
内力が非常に強く、その功夫は一本の脚で立ったままの許立坊を誰も押し倒せる者がいなかったほどである、また身法も速く、旋転に独特の歩法を加えた動きは、人に幻影を生じさせるほどであった。また指は非常に強靭で、力のある大男に思い切り曲げられてもびくともせず、掌の力は刀や棒と競うほどであり、歩法の霊妙さは氷の上を自在に滑るようであった。
許立坊は高い功夫を体得していたが、人前で軽々しく披露する事はなく、ときおり謙虚で熱心な学生がいればその願いを受けれ密かに技を伝えていた。
1993年の6月、地壇北京蝋人形館の東門外、北京特別警察の張という男が、許立坊の名を慕って彼を探し当て腕試しを申し出た。
張は擒拿術を使い許立坊の腕を押さえ込もうとしたが、技を出した瞬間に許立坊に肩をとられた。
そしてすぐさま不可思議な歩法で脚を封じられ身動きが取れなくなった。張は何度も反撃を試みるが全て許立坊に押さえ込まれてしまい、心中何が起こったのかまったくわからなかった張は、翌日もう一度挑戦に出向く。
しかしまたもや技を出そうとした瞬間、許立坊に手首をおさえられ、手首を戻そうとしたが間に合わず、許立坊の内力を受け地面に倒れてしまった。その後、張は自らの負けを認め許立坊に師事し、彼に擒拿術を学んだ。
また、北京に曹という摔跤(中国式レスリング)の名人がいた。曹は身長が高く、大きな体で力も強かった。許立坊の名を耳にし、八卦功夫を試しに訪れた曹は、拳を打ち出そうとした瞬間に全身が感電したような衝撃に襲われ、次の瞬間許立坊に跳ね飛ばされ地面に倒れそのまま起き上がれなくなってしまった。その後、曹は許立坊に師事したいと申し出るが、年齢の関係により師弟関係とはならず、良き友人となった。
またある時、許立坊は国家の物資を山西に運んでいく途中、数十人の盗賊に襲われた。棍や棒を持ち合わせた盗賊を全て素手で打ちのめし退散させた許立坊は、後にその勇姿を多くの人々の間で噂された。
さらには、マレーシアの散手競技チャンピオンが許立坊を慕い遠路北京を訪れ武功を学んでいた。
許立坊は、生涯をかけ高い武功を体得し、徳芸を兼ね備え、その誠実な人柄で多くの人々の信用と敬慕の念を得た八卦掌の宗師である。

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