無形の境地に迷う

北京「馮志強武館」修行風景(横山春光)

 2004年11月、留学して間もない時期に陳項老師より『陳式心意混元太極拳48式』を学び始めてから、私は毎日迷走の日々を送っていました。

 「これは素晴らしい太極拳だ」と、ひしひしと感じるのですが、その型を超えた無形の境地は、まったくどこから手をつけていいのか解からないのです。

 陳項老師の行う、柔らかく重厚な円運動は、どこからどこまで、といった型の区切りが無く、また動くスピードも完璧に内面の気の流れに沿っていいます。

 時には速く、時には穏やかに、そしてある時は深く深く丹田に入っていくので、どうやってそれを学んだら良いのか、当時の私には皆目検討もつきませんでした。

 後ろについて一緒に動けば、太極拳の超初心者の私ですら、その深遠なる太極拳の喜びを僅かにですが感じる事ができます。しかし、それは心地よい水流に浮かび、流れのままに身を任せながら蠢く木の葉のようなもので、その流れが止まれば心地よい時間も終わってしまいます。

 「どうやったら、あの心地よい気流を、自ら生み出せるのだろうか?」

 中国語も殆ど理解できず、ひたすら何回も何回も教えられた型を繰り返し練習する事しかできなかった私は、次第に最初のスランプ期へと入ってしまいました。

 スランプの具体的な理由の一つは、太極拳の基本の歩き方(歩法)です。

 「弓歩」「四六歩」「虚歩」と、代表的ないくつかの歩法があるのですが、「陳式心意混元太極拳」の練習方法は、内面の感覚を非常に重要視しているため、外形への要求がそれほど厳格ではありません。

 陳項老師に質問をして歩法を修正して頂こうと思っても、ほんの少ししか手直しをして下さいません。

 手直しして頂いた後も、未熟な私にはそれがどうして正しいのか、体で感じる事ができません。納得のいかない顔をしていると「あとは自分の感覚で立ちなさい」と言われるのです。

(※ずっと後から分かったことですが、新人の私が最初からそこまで深く指導して頂ける訳がありません。まず礼を尽くして老師との信頼関係を築くこと、そのことを当時の私は分かっていませんでした)

 太極拳を始めるまで、殆ど運動というものをした事がなかった私にとって、「内面の感覚」というものが一体どんなものなのか、正直言ってまったく解からなかったのです。

 「正確な外形が学びたい」そう強く思いました。

 「つま先を外へ何度開くのか?」
 「腕をどの角度で上げるのか?」
 「どの動きが誤りで、どの動きが正しいのか?」
 「何も分からない初心者の私に、はっきり指し示して欲しい!」

 新人のくせに無礼千万にも気づかず、陳項老師に対して「大変失礼な事を考えているのではないか」と、心のどこかで思いながらも、どうして良いのか毎日分からない苦しみから、抑えきれずそう強く思いました。

 しかし、武館に通っている多くの方々が、陳項老師より直接指導を受けて太極拳を学んでいる私に「君が羨ましい」「私もチャンスがあれば是非とも陳項老師に学んでみたい」と入れ替わり立ち替り語りかけてきます。

 「一体、私はどうすればいいのだろう? 私は陳項老師のもとで学ぶ能力が無いのではないだろうか?」

 すっかりスランプ状態に陥ってしまい、「気」「内面の感覚」「丹田」といった目に見えないものを表現する言葉にすらアレルギーを感じ始めていた頃、ある日、その最高の境地を目の辺りにし、全ての迷いが吹っ切れる瞬間が訪れました。

つづく

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