
八卦掌第四代継承者
程派八卦掌第三代継承者
1934年―2001年 8月15日 午前9時
河北省清河県武家那村に生まれる。
幼い頃に従軍中であった父を亡くし、その寂しさを紛らわす為、玩具代わりに刀や棒を振り回し遊ぶのを好んだ。
1950年、同郷の武術家である呉炳瑞に師事し、形意拳、八卦掌を学ぶ。
呉炳瑞は若い頃、軍閥の張宗昌の護衛に長年についていた。また程有龍と兄弟の契りを結び八卦掌を学んでおり、かつては河北形意拳の名手であった。また呉炳瑞は軽功に優れ、一飛びで六歩はある高い壁を越えることができ、人々に“六歩高”と呼ばれていた。

後に、北京安定門外小関北里に定住した許立坊は、呉炳瑞より程派八卦掌第二代継承者である程有信に八卦掌を学ぶようにと推薦され、1962年に程有信に正式に認められ関門弟子(最後の弟子)となる。
許立坊は非常に正直な人柄で、真面目に練功を積み、きわめて努力家で、師に対して実の父のように尽くし、師の奥義を伝授された。
特に文化大革命の頃、武術の鍛練が固く禁じられた為、多くの拳法家の武功が荒れ果て、師弟の間の行き交いも少なくなっていたが、許立坊は幼少に父を失っていた事から、程有信を父のように慕い、そばを離れることはなく、自らの少ない給料の一部を恩師である程有信に渡していた。晩年に年老いて孤独で貧困な状態にあった程有信の、精神と物資の支えになったのである。後に、程有信は家伝であった八卦掌の精華を許立坊に授けた。
程有信が亡くなった後、許立坊は恩師の教えをしっかりと心に刻み、日々懸命に鍛練する。またその頃、樊大姑(董海川の得意弟子の樊鳳勇の娘)の熱心な指導を受けた。同時に大悲拳の名人、奇雲和尚(俗称:史正剛)と深い交流を持ち、大悲拳の内功心法を得る。
当時の武術界の中で他の門派の特徴を吸収した許立坊は、天性の悟性の高さから、更に自らの武学を充実させていった。
内力が非常に強く、その功夫は一本の脚で立ったままの許立坊を誰も押し倒せる者がいなかったほどである、また身法も速く、旋転に独特の歩法を加えた動きは、人に幻影を生じさせるほどであった。また指は非常に強靭で、力のある大男に思い切り曲げられてもびくともせず、掌の力は刀や棒と競うほどであり、歩法の霊妙さは氷の上を自在に滑るようであった。

許立坊は高い功夫を体得していたが、人前で軽々しく披露する事はなく、ときおり謙虚で熱心な学生がいればその願いを受けれ密かに技を伝えていた。
1993年の6月、地壇北京蝋人形館の東門外、北京特別警察の張という男が、許立坊の名を慕って彼を探し当て腕試しを申し出た。
張は擒拿術を使い許立坊の腕を押さえ込もうとしたが、技を出した瞬間に許立坊に肩をとられた。
そしてすぐさま不可思議な歩法で脚を封じられ身動きが取れなくなった。張は何度も反撃を試みるが全て許立坊に押さえ込まれてしまい、心中何が起こったのかまったくわからなかった張は、翌日もう一度挑戦に出向く。
しかしまたもや技を出そうとした瞬間、許立坊に手首をおさえられ、手首を戻そうとしたが間に合わず、許立坊の内力を受け地面に倒れてしまった。その後、張は自らの負けを認め許立坊に師事し、彼に擒拿術を学んだ。
また、北京に曹という摔跤(中国式レスリング)の名人がいた。曹は身長が高く、大きな体で力も強かった。許立坊の名を耳にし、八卦功夫を試しに訪れた曹は、拳を打ち出そうとした瞬間に全身が感電したような衝撃に襲われ、次の瞬間許立坊に跳ね飛ばされ地面に倒れそのまま起き上がれなくなってしまった。その後、曹は許立坊に師事したいと申し出るが、年齢の関係により師弟関係とはならず、良き友人となった。
またある時、許立坊は国家の物資を山西に運んでいく途中、数十人の盗賊に襲われた。棍や棒を持ち合わせた盗賊を全て素手で打ちのめし退散させた許立坊は、後にその勇姿を多くの人々の間で噂された。
さらには、マレーシアの散手競技チャンピオンが許立坊を慕い遠路北京を訪れ武功を学んでいた。
許立坊は、生涯をかけ高い武功を体得し、徳芸を兼ね備え、その誠実な人柄で多くの人々の信用と敬慕の念を得た八卦掌の宗師である。