陳式太極拳 第十代継承者

陳照丕ちんしょうひ

陳式太極拳 第十代継承者(陳氏十八世)陳照丕
陳式太極拳 第十代継承者 陳照丕

1893-1972年
陳氏十八世
字績甫、
河南省温県陳家溝 生まれ。

解放後、1960年の全国武術大会で「全国太極拳名家」の称号を受け、1964年には全国武術協会の委員に選ばれたとされる。

1958年、勤めていた開封の黄河水利委員会を退き、故郷の陳家溝に帰って太極拳を教えた。同じ年、河南省の武術大会の太極拳で第一位となった。

当時、陳家溝で名を知られた陳式太極拳の使い手は、みな陳照丕の弟子か、その弟子だったといわれる。

1928年秋、陳照丕は北平(今の北京)に招かれ、陳発科とともに陳式太極拳を教えた。陳家溝の伝えでは、招いたのは北平の老舗の薬店「同仁堂」の主人、楽佑申・楽篤周の兄弟だったという。

北平の河南同郷会にいた清末の翰林、李慶臨は、温県北張羌村(陳家溝の西北八里)の出身で、太極拳が故郷に生まれたことを誇りにしていた。

李慶臨は『北平晩報』に投書し、こう広く知らせた。「わが国の拳術は種類が多く、学ぶ者が選び方を誤れば、剛に偏る者は筋骨を痛め、柔に偏る者は実用の役に立たない。ただ太極拳だけは剛と柔が助け合い、渾然として一つである。太極拳は河南省温県陳家溝に発し、陳王廷、陳長興ら先人の拳術はすでに全国に名を轟かせている。いま、陳長興公の四世の孫・陳照丕が北平に来て、しばらく南門外の打磨廠、杜盛興号に滞在している。志のある者はこの機を逃してはならない。逃せば一生悔やむことになろう。」

新聞を手に腕試しを求める者が後を絶たず、陳照丕は宣武門に擂台を設けた。

17日間で200人余りと手を合わせ、一度も敗れず、その名は都に響いたと伝えられる。

陳発科が弟子の洪均生に語った話では、照丕は薬の荷を運んで北平に来て、前門外打磨廠の薬行に身を寄せ、河南会館の人々に請われて教え始めたという。

陳家溝には、次のような話も伝わっている。南京市長の魏道明に招かれたとき、北平の武術界の友人や弟子たちが引き留めた。

そこで陳照丕は、一族の叔父である陳発科を自分の代わりに推し、「三叔の腕は私よりずっと上で、今でも私の師なのだ」と弟子たちに語った。こうして陳発科が北平で教えることになったという。照丕本人の1935年の自序によれば、1930年には南京市政府に勤めていた。陳発科自身も、照丕が「私の拳は三叔に学んだもので、三叔の腕は私の百倍だ。三叔を北京に呼んで教えてもらい、私は南京で働けば、どちらにもよい」と言って自分を推したと語っている。

1935年には『陳氏太極拳匯宗』を著した。陳長興の名で伝わる拳論は、この本で初めて活字になった。北平で照丕を世に知らせた李慶臨も、この本に序を寄せている。

文化大革命の時代、拳の練習は「夜に集まり朝に散る」「徒党を組む」と誹られ、禁じられた。陳照丕は批判の場に引き出され、町中を引き回されたが、八十歳近い老齢でも屈せず、太極拳を毛沢東の『語録拳』に編み直して、村の人々に教え続けた。

路地から路地へと村を回って教え、最期まで伝えることをやめなかった。1972年12月30日、病院で亡くなった。

陳家溝の村人たちは、自ら陳照丕の陵園を建て、碑を立てた。300年余りの陳氏太極拳の歴史で、一人の伝承者のために陵園が設けられたのは、これが初めてだという。

碑文にはこうある。

「公は若くして拳を伝えるために各地を奔走し、晩年は家にあって拳を授け、老いてなお志は堅かった……祖先の業を受け継いで後の人々を導き、陳氏太極拳を広めるために心血を注ぎ、身を尽くした……生涯を武術の事業に捧げ、陳氏太極拳の発展の歴史において、先人を受けて後の世を開いた一代の宗師と称えられる。後の人々は限りなく敬い、仰ぐであろう。」

人々の心に刻まれた碑文である。

陳照丕の没後、一族の陳照奎も故郷である陳家溝に帰り弟子を取り伝承を続けた。