
1928年1月24日-1981年5月7日
陳氏十八世
第九代継承者 陳発科の息子。
4歳で父親とともに北京に渡り、7歳で父親より陳式太極拳を学んだ。息子の陳瑜は、父は4歳のころから拳を練り始めたと回想している。
陳式太極拳の理論と擒拿(組み技)、さまざまな技撃の法に通じ、精妙な攻防の技を得意とした。
1961年、上海市体育委員会の顧留馨に招かれ、上海の体育宮で陳式太極拳を教えた。1963年には北京の仕事を辞めて再び上海に招かれ、翌1964年には南京体育委員会にも招かれた。その腕前は上海の武術界で評判になったと伝えられる。
上海や南京などで多くの学び手を育て、教えを受けた者は千人を下らないといわれる。
その後もおよそ20年にわたり、南京、北京、鄭州、焦作、石家荘など各地で陳式太極拳を教えた。
1970年代には、ほぼ毎年故郷の陳家溝に戻って数か月ずつ滞在し、生涯で学んだことと自ら会得したことを、村の若者たちに惜しみなく、倦むことなく教えた。陳照丕が亡くなったのち、1973年から帰郷して教えたという。
このころ陳家溝で育った陳正雷、陳小旺、王西安、朱天才の四人は、のちに武術界で「四大金剛」と呼ばれるようになった。陳家溝に新しい世代が育ったのは、陳照丕と陳照奎の二人によるところが大きいとされる。
今日の陳家溝の新しい世代が練習している新架一路、新架二路と擒拿(組み技)などの技は、陳照奎から伝わったものとされる。陳照奎は、陳家溝の陳式太極拳の発展と向上に大きく貢献した。
息子の陳瑜は、父が姿勢を一つずつ細かく直してくれたこと、練習の合間に三国志などの物語を語って聞かせてくれたことを回想している。
弟子の馬虹は、鄭州での授業をこう回想している。夜の3時間で一つの拳式を教え、最初の1時間は自ら示範しながら要領を説いて、学生には見て聞くことに専念させた。次の1時間は学生を率いて動作を一つずつ練らせ、最後の1時間は一人ひとりの動作を直した。できない学生には何十回でもやり直させたが、そのたびに自分も示範したので、冬でも学生と同じだけ汗をかいていたという。
1981年5月7日、焦作で脳溢血のため亡くなった。53歳だった。