幼少期から高校卒業まで
1976年1月14日、宮崎県延岡市北川町という過疎地に生まれる。初孫であったことと言葉の発達がはやかったため、親族の寵愛を一身に受ける。
1979年10月、3歳年下の弟が生まれるが直後に両親が離婚、立て続くように祖母が他界し母親が孤立したシングルマザーとなる。
養育費を支払わない父親が行方不明となり、母親が経済的困窮に陥ると夜間に仕事に出掛けるようになり、3歳で0歳の弟の世話をするようになる。その後、徐々に家庭内においてネグレクト状態になる。


小学2年生の頃、父親が家に戻り数日間過ごすが、翌日に絵本を読む約束をしたまま再び行方不明になる。その年に書いた読書感想文がコンクールで初めて最優秀賞を受賞する(以降、小学校を卒業まで毎年最優秀賞を獲得)
小学3年生の頃から家庭環境が原因で学校でいじめを受けるようになり、たびたび不登校となる。この頃から母親によるDVが始まる。
小学5年生の頃に学級委員長に立候補し当選するが、原因不明の体調不良を起こすようになる。
小学6年生の頃、忘れ物を理由とする担任教師からの激しい体罰を受け、対人恐怖の症状が発症し深刻な不登校になる。不安と寂しさを紛らわすため図書館の本を借りて読むことに夢中になり、小学校卒業までに学校の図書館の本を全て読破する。
中学1年の1学期の期末テストで学年トップになるが、2学期に入ると離人症(PTSD症状の一種)が悪化し、引きこもりになる。その年に校長先生の勧めで「水」をテーマとする中学生作文コンクールに応募し、宮崎県で最優秀賞を受賞して県代表に選ばれるが、このことが原因で中学校では上級生からいじめを受けるようになる。
中学2年生で完全に不登校となり、校長先生より転校を勧められる。同年、延岡市内の中学校へ転校するが、新しい担任教師から知能検査での高得点を初めて告げられ、周囲との違いに苦しむようになる。
転校してから数日後、再び不登校となり言葉を話せない症状が始まった。
中学3年生で地元の中学校に戻るが、不登校の状態は続く。
その後、校長先生のサポートを得て高校受験に臨み、延岡学園高等学校に入学。
高校入学後、環境の変化によりいじめはなくなったものの、原因不明の不安症と希死念慮に悩まされるようになる。保健室の教員から、これらの症状が母親からのDVが原因である可能性を指摘される。その頃、アルバイトで貯めた給料でギターを購入し、ロック音楽に夢中になっていった。
高校時代は友人との交流が上手くいかず、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。
社会人時代「就職氷河期第一世代」
高校卒業前、担任教師から出席率の低さを理由に学校斡旋での就職はできないと告げられた。東京へ行きたいという希望を持っていたため、自力で地元のハローワークを通じて仕事を探し、就職氷河期第一世代として音楽活動への夢を胸に家を出ることを決意した。母親との距離を置くことで心身の不調が改善されると信じ、仕事と音楽活動に新たな希望を見出す。
工場勤務と鬱症状
高校卒業後、ハローワークを通じて東京から最も近い求人先であった長野県松本市の工場に18歳で就職したものの、過酷な長時間勤務に耐えられず、わずか1か月で鬱状態となった。社員寮でリストカットをしているところを発見され、結果的に解雇となり、一時的に実家へ戻ることになった。
アルバイトとバンド活動の日々
同年、地元の先輩の援助を得てバッグ一つで横浜市へ上京。住み込みのアルバイトを経て、アパートを借りて一人暮らしを始める。その後はアルバイトとバンド活動に没頭する日々を送った。

音楽への夢と挫折
音楽雑誌を通じてメンバーを募集しロックバンドを結成。リーダーとして作詞・作曲・編曲を担当し、都内のライブハウスで初めてのライブを達成した。観客の反応を評価したオーナーからレギュラー出演の依頼を受けたが、ベーシストの長期帰省により実現には至らず大きく失望する。
その後、バンド活動の不安定さを実感し、DTMを活用して作曲家への道を目指したが、孤独感と経済的困難により鬱症状が再び現れ健康状態が悪化した。実家への帰省が難しい状況で、生活の安定を優先せざるを得ず、音楽活動の中断を決意した。
再就職と体調不良
その状況を見かねた元アルバイト先の先輩から、契約社員として働きながら経済的な安定を目指すことを提案される。さらに「最も好きなことではなく、二番目に好きなことを職業にすると精神的に安定する」と勧められ、独学で身につけていたWeb制作のスキルを活かし、再就職を目指す。
23歳の頃、別のアルバイト先で知り合った知人から派遣会社を紹介され、Web制作業界で派遣社員として働き始めた。しかし、音楽への夢を諦めたことで精神的な支えを失い、次第に心のバランスを崩していく。
不眠症とアルコール依存
再就職してからまもなく深刻な不眠症に悩まされるようになった。同時に悪夢障害も発症し、やっと眠りについても悪夢で飛び起きる日々が続いた。翌日の仕事のために何とか睡眠を取ろうとアルコールを飲み始めたことがきっかけで、次第にアルコールがないと眠れない体質となり、徐々にアルコール依存症へと陥っていった。
生きることを諦めることで、生きる喜びを見出す
25歳の頃、「自分は生きる能力がない」と悟り、生きることを諦めようという思いに至った。しかし、死ぬまでにはまだ時間があるのだから――そう考えた時、生まれて初めて自分を大切にしてみようという思いが芽生えた。
会社での業務や人間関係のストレスから一時的に心の距離を置き、メンタルトレーニング、認知療法、瞑想などを組み合わせた独自の方法で、心身の健康回復に取り組むことにした。
体調が回復すると精神状態も改善されていった。自分を苦しめているものは自分の内側にあると気づいてからは、平日は会社勤務を続けながら、プライベートでは瞑想や食事療法、独自の体操など日課とするようになり、生まれて初めて「何も特別なことなくても自分の中に生きる喜びがあること」を感じられるようになった。
太極拳との出会い
26歳の頃、会社の休憩時間に非常階段で日課の自己流体操をしていたとき、空に突然「太極拳」という三文字が浮かんだ。その日のうちにインターネットで都内の太極拳教室を探し、体験受講の申し込みをする。
独学で禅を学ぶ
都内の太極拳教室で体験受講をした際、所属団体から勧誘を受け、仕事を辞めるよう勧められた。その後、禅寺で2年間の静養生活を送り、太極拳の鍛錬に励みながら、独学で禅とインド哲学の専門書を読み込んだ。
中国へ渡り心身の健康を取り戻す
所属していた太極拳団体の紹介で28歳の時、武術留学生として中国・北京へ渡る。
北京と河南省で6年間過ごし、現地の武術学校や伝統武術家から太極拳、八卦掌、中国気功法を学ぶ。
その結果、原因不明だった症状が改善され、心身ともに健康を取り戻した。

帰国後の活躍と怪我
中国留学を終え帰国を控えていた頃、NHK番組の取材を受け、中国伝統武術と自身のそれまでの歩みを紹介することとになる。番組放送後、帰国して東京・神奈川で太極拳と八卦掌の教室を開催したところ大きな反響を呼び、2年間で13か所まで教室が拡大。生徒数は100名を超え、その指導に携わることとなった。
眼窩底骨折と頚椎脱臼骨折
帰国して2年後の36歳のとき、教室の交流会の帰り道で生徒に顔を蹴られ眼窩底骨折を負う。翌年、この怪我が原因の過労と睡眠薬のオーバードーズ(過剰摂取)により自宅で転倒、頚椎脱臼骨折で救急搬送される。
緊急手術を受け、奇跡的に命を取り留め、麻痺などの後遺症もなかった。しかし、後方固定術(自分の腰から削り出した骨で頚椎を固定する手術)による体へのダメージが大きく、教室での指導を3か月間休むこととなった。

複雑性PTSD障害の診断を受ける
その後、数年かけて手術の後遺症から回復したものの、中国武術の講師としての自信を失う。
40歳で心療内科を受診、複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断を受ける。ようやく心身の不調の原因が判明し、また過去に解離性同一性障害であった診断も受ける。医師からは「普通なら30歳まで生きられない状態だった。よく頑張った」と励まされ、深く救われる思いを感じる。この年に結婚、医師から「普通の生活を送り、あなたが何を言っても何をしても、あなたの傍から離れない人がいることを実感すること、それが治療になる」と告げられる。
向精神薬の離脱症状に苦しむ
最初の怪我(眼窩底骨折)をきっかけに処方され、長期間服薬していた向精神薬(ベンゾジアゼピン系)の副作用に悩まされる。減薬・断薬を試みたものの、離脱症状に苦しむことになった。主な症状は不安、不眠、悪夢、不整脈、過呼吸、脱毛など。
治療に専念する
教室活動を全て停止し、心身の根本治療に専念する。
PTSD専門クリニックを受診し、カウンセリング治療にも取り組む。その際、専門医に「性格と体質的に太極拳が最も効果的である」というアドバイスを受けたため、その後5年間をかけて服薬を段階的に減らしながら、自分のための太極拳に専念した。
2020年3月、服薬を中断した期間はあったものの、44歳で8年間ぶりに向精神薬を完全に断薬。以降、少しずつ本来の自分自身の生き方を取り戻していった。
コロナ禍を経て快方に向かう
帰国後は毎年住居を変える生活を送っていたが、かつての活動拠点だった吉祥寺を懐かしく思い、コロナ禍の収束を待って再び移り住むことを決める。間もなく東京でのマスク着用義務が解除され、数年ぶりに街で人々の笑顔を目にした。当たり前の日常と人々の生活に深い感動を覚え、それをきっかけに日本と中国の違いや過去の苦しみへのこだわりから自然と解放された。日々のささやかな幸せを感じられるようになり、中国武術講師としての活動再開を決意した。
2023年3月、日本中国伝統功夫研究会の活動を再開、現在に至る。
