陳式太極拳第十一代継承者(陳氏十九世)
陳正雷(ちんせいらい)
1949年5月17日
河南省温県陳家溝生まれ。
陳式太極拳「四天王」の一人
河南省武術協会副主席
河南省武術管理中心副主任
河南省太極健身培訓中心総教練
国家武術高級教練
中国武術協会委員
中国十大武術名師の一人
中国武術段位・九段(最高段位)
中国無形文化遺産
2歳の時に父親を亡くす。その後、母親が再婚したため50歳以上も年上の叔母のもとで暮らすことになった。叔母は度々発作を起こし、陳正雷は学校へ通いながら叔母の世話をするという幼少期を送った。
8歳より太極拳を学ぶ。小学校を卒業したその年、陳式太極拳第十代継承者である陳照丕が引退し、陳家溝で太極拳を教えるために故郷に戻った。
叔父である陳照丕は彼に「太極拳を練習しなさい。太極拳は私たちの家宝であり、お前はそれを継承する責任がある。そして太極拳はお前を今の苦しい日々から出口へと導いてくれるだろう」と伝えた。それ以来、彼と太極拳には切っても切れない縁が生まれた。
陳照丕は幼少期に父を亡くした甥を大切に扱い、1972年に亡くなるまで丁寧に教育した。
その後、陳正雷は叔父である陳照奎(陳式太極拳第十代継承者)のもとで、全ての套路と器械法を学んだ。
1972年、西安で多くの太極拳仲間と交流した際、「陳家溝から達人が来たぞ!」と噂になり、西安に大きな驚きを巻き起こした。
陳正雷の武術の腕前は兄弟の中でも優秀だったが、彼の家は地主だったため、あらゆる武道の大会に参加することを許されなかった。
1974年、新郷地区は第3回河南省武術大会に参加するために温県で武術選抜会を開催した際、陳正雷が最初に陳式太極拳と刀術、槍術などの武器法を演武すると即座に人々を魅了した。更に、陳家溝に代々伝わる虎を退治したという伝説を模倣した演武を行い、その勇猛な風格と身体能力の高さに人々は歓喜し、委員会は陳正雷を特別に省大会への出場を招待した。
その後、全国および地方の武道大会で太極拳と推手の部門で20回以上の優勝を修める。
1982年以降、温県体委 教練、河南省武術館 教練、陳家溝太極拳学校 校長、平頂山太極少林武術研習院 副院長兼総教練を歴任する。
また、国内外の50以上の太極拳団体に顧問や名誉会長として招聘された。
改革開放後、陳家溝を訪れる大勢の外国人の太極拳愛好者たちを受け入れ、同時に30箇所を超える国や地域に太極拳の指導者として招かれ、太極拳の風格を世界に示した。
陳正雷は、陳式太極拳の普及に大きく貢献した人物であり、海外から訪れる学習団への指導だけでなく、頻繁にアジア、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど各国を訪問し、全国各地で陳式太極拳の講演を行っている。
温県太極拳研究協会を設立し会長を務め、陳氏太極拳名録の作成を主宰し、歴代の陳氏太極拳継承者の墓地を建設し、太極拳歴代名人記念館、陳家溝太極拳学校を復元し、河南省焦作温県太極拳年会の実施など、多くの偉業を成し遂げている。
また、太極拳を学びたい者には身分を問わず教え、貧しい子供がいたら食事や衣類を与え、また医療費や学費を援助することもあった。しかし、他人を傷つけるために太極拳を学ぼうとする者には、いくら大金を積まれても一切応じることはなかった。
教えを与えた学生には、人格の育成、理論や教養など、全面的な教育と立ち振る舞いを身につけるよう指導している。
幼い頃に農村で育ち、十分な学習教育を受ける機会に恵まれなかった陳正雷は、その後懸命に努力をして文学書や太極拳理論を読み、1985年には、河南大学の通信教育を3年間受講し、卒業資格を取得した。
その後、十数年をかけ『太極拳対周身各部位的要求』『十段階功法論』『太極拳の内気と経絡理論』『纏絲功論』など、多くの論文を発表している。
また、『陳氏太極拳械匯宗(全三冊)』『陳氏太極拳術』『陳氏太極剣刀』『陳氏太極拳教科書』『陳氏太極拳養生功』などの著書がある。
河南省武術館副館長、河南省武術管理中心副主任、 河南省武協副主席、国家武術高級教練、国家級社会体育指導員、 中国武術協会委員、中国体育科学学会委員を歴任し、中国当代“十大武術名師”に選ばれている。
中国武術段位9段(最高段位)。2020年に「中国無形文化遺産年間最優秀人物」に選ばれる。