卜氏八卦掌創始者
卜文徳(ぼくぶんとく)
1919年‐2011年4月11日
河南省開封市生まれ。
卜氏八卦掌創始者
中華武林百傑の一人
中国武術段位 九段(最高段位)
鄭州華英武術倶楽部総教頭
あらゆる種類の刀術、槍術、剣術などに精通し、羅漢拳、六合刀、金絹槍、白猿棍、子午鴛鴦鉞などが有名である。
さまざまな学派の武術の長所を統合し、研究と錬磨を経て、独特で戦術的な卜氏八卦掌を編み出した。また、陳式太極拳四天王を選抜した功労者であり、毛沢東の前で刀術を演武し高い評価を得た経歴を持つ。
8歳で片手で45キロの重りを持ち上げることができた。
幼い頃から家は貧しく、塩土を掃き、塩水から塩を作って生計を立てていた。肉体強化のため16歳の頃、開封の「培英武術学社」において「鉄腿」と呼ばれた孫霽紅に師事し、苦練数年で高い少林功夫を授かった。
1937年に孫霽紅が死去。その翌年、1938年に開封は日本軍によって陥落した。日本軍が到着すると「培英武術学社」の複数の武術館は活動を停止したが、卜文徳と兄弟子の聶増永は文昌の街の路地裏で培英武術学社の名義で弟子を取り武術の伝承を続けた。
日中戦争中、卜文徳が日本兵に襲われている中国人女性を救うために応戦した武勇伝は、当時の開封に大きな感動と希望を与え、今も語り継がれている。
1945年、河南省武術大会に参加し、優勝旗を獲得した。
1953年、新中国の社会主義建設の呼びかけのもと、卜文徳は開封を離れ鄭州の建設会社に就職し、足場職人として働くくととなった。
ある日、卜文徳と聶増永は鄭州体育場の前を通りかかり、場内で武術選抜大会が行われているのを目撃した。
是非とも参加したいと決意した二人は審判長のところに行き許可を求めた。審判長は彼らが武術が盛んである開封市出身であることを聞いて参加を認めた。
卜文徳はその場で単刀を借りて得意であった六合刀を即興で演武し、その卓越した腕前は皆を驚かせた。
また、卜文徳と聶増永の兄弟弟子による対練演武は、刀も剣も光の如く早く、流星と稲妻の闘いのような様子に、その場にいた数百人の観客が一斉に歓声を上げるほどであった。
これを見た審判長は即座に二人を鄭州市武術代表隊への入団を認めると発表した。
それまで無名だった卜文徳は、市団体から省団体、そして瞬く間に当時の中南区代表隊に移籍した。
1953年、卜文徳と聶増永を含む6人で河南代表隊を結成し、天津で開催された「第一回 民族形式体育表演競賽」全国体育表演大会に出場し、その大会で二人が演武した「朴刀進槍」は、ト文徳の刀光がまるで雪片が舞うかの如く翻り、聶増永の長槍が飛龍の如く速く稲妻のようだと称され、全会場が拍手と歓声の声轟き、中央人民政務院副総理兼文化教育委員会主任(当時)の郭沫若から優勝賞を授与され、二人は河南省初の金メダルを獲得した。
その直後、卜文徳と聶増永は国家体育委員会より重要な任務があるとの通告を受け、「北京中南海懐仁堂」にて、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳などの国家指導者の前で「朴刀進槍」を演武し、高く称賛され歓迎された。
その出来事に卜文徳は双眼に涙を湛えるほど感激し、以来ますます鍛錬に打ち込み、その日々は生涯に渡って絶えることはなかった。
その後、河南省馬坡村に赴き、馬坡八卦掌(梁派八卦掌第二代 賈鳳鳴が伝えた八卦掌)を学び、長年にわたり研究と錬磨を重ねて、他に類を見ない独特で戦術的な卜氏八卦掌を編み出した。
卜文徳は河南省武術競技大会で4回優勝し、全国武術観摩交流大会で優秀賞を2回受賞し、1958年には全国武術協会の4代目委員に選出され、3期連続で選出され、国家武術審判員1級に選ばれている。
1985年2月、日本の武道館開館20周年を記念して、卜文徳は中国武術代表団とともに日本を訪問し、六合刀と八卦掌を演武した。
1991年、「第一回 鄭州国際少林武術大会」に参加し、八卦掌と子午鴛鴦鉞で2つの金メダルを獲得した。
2004年と2006年には、それぞれ第一回と第二回「世界伝統武術大会」に参加し、八卦掌と剣術でそれぞれ2個の金メダルを獲得した。
半世紀以上にわたり、その優れた武徳と卓越した功夫で国内外の大規模競技会で18個の金メダルを獲得した。
2003年5月、卜文德は「中国-鄭州華英武術倶楽部」を設立し総教頭を務め、中国武術の普及に大きな貢献を果たした。
90歳を超えても目も耳も衰えず、腰も曲がらす、毎朝5時半に起床し、6時から鍛錬を開始し8時に終了する生活を生涯続けていた。また有名な酒豪であり、晩年においても白酒半瓶を毎晩嗜んでいた。
生前の卜文德は、長寿の秘訣について「秘訣などない、とにかくもっと動くことだ。動かなければ徐々に動くのが億劫になり、遅かれ早かれ身体に何かが起こるだろう」 という言葉を多くの愛好者や弟子に残している。
2011年4月11日、自宅のある鄭州市にて、80年に渡る輝かしい武術人生を我々の記憶に残してこの世を去った。