陳式太極拳第六代継承者(陳氏十四世)
1771-1853年
字雲亭。
幼少の頃より鍛錬に励み、太極拳の練習中であろうが、日常生活であろうが、一貫して真摯に拳理を実践した。
午後の練習で眠くなったら幅の狭い長椅子で不安定な姿勢で仮眠をとり、落下して目を覚ますとまた鍛錬に励むという徹底ぶりであった。
苦練が実り、陳長興の武功は高い境地に至った。また、如何なる時も正しい姿勢であったため、人々に「牌位大王」と呼ばれていた。
同時に、陳王廷が創始した太極拳の一路から五路の型を基礎として、更に洗練・発展させ、現在の陳式太極拳の一路と二路(炮拳、炮錘とも呼ばれる)を創編した。
陳長興は護衛を生業としており、山東に赴き何度も強敵を倒していたことから、武術界では有名な人物であった。
晩年、陳長興は故郷である陳家溝に帰り隠居し武術学校を開いた。その学校は自宅から約300メートル離れた陳徳瑚の自宅であった。
当時、陳徳瑚の家には長期労働者として河北省永年市出身である楊露禅(1799年-1872年)が働いていた。楊露禅はもともと永年県で陳徳瑚が開いた薬局で働いていたが、その後陳家に派遣されて農業を始めた。
楊露禅は陳家溝の太極拳習学の習慣に影響を受け、学びたいと思った。
しかし、陳家溝には「外姓には伝授しない」という風習があったので、他所者であり長期労働者である楊露禅は正式に申し出ることはなかった。そこで陳長興が太極拳を教えている様子をそばで見て学び、誰もいない場所で一人練習を積んだ。
二年ほど経ったある夜、楊露禅が太極拳の練習をしていると陳長興が通りかかり、自分の生徒に似ていないことに気づき、誰なのか尋ねると、楊は「蝉(幼い頃の呼び名)です」と答えた。
陳長興は驚いて「あなたが太極拳を習っているところは見たことがない、なぜ練習できるのだ?」と尋ねると楊露禅は陳長興に向かって平伏し真相を話した。
当時の武術界では、許可なく流派の異なる武術を盗み見るのは禁忌とされていた。技術を剥奪されたり深刻な場合は命を失うこともあった。
陳長興は楊露禅を責めることはせず、むしろ求学心に好感を持ち、勤勉で誠実な人柄を高く評価し、陳德瑚と相談し労働時間外に太極拳を学ぶことを許可した。
それ以降、楊露禅は陳長興の弟子となり正式に太極拳を学び始めた。陳長興と同じように夜は長椅子で眠り、18年間に渡り懸命に学習に励み陳式太極拳を習得した。
陳長興ですら意図せず掟を破って得た弟子であったが、その後、楊露禅は太極拳の普及と発展に多大な貢献を果たすこととなった。
楊露禅は陳家溝を去った後、北京に渡り太極拳を教えた。広く弟子をとり、更に弟子が弟子に伝えてて広がっていった太極拳は大きく発展し、流派は流派の中で発展・枝分かれし、陳家を含む楊、呉、武、孫の五大流派が徐々に形成された。
太極拳が約350年発展の歴史上、陳長興が後の太極拳の発展に多大なる影響を及ぼしたことは言うまでもない。
陳王廷が書き残した著書が殆ど失われており、これまで口伝のみで伝えられてきたことに危機感を覚えた陳長興は、いくつかの著書を残している。『太極拳十大要論』『太極拳用武要言』『太極拳戰鬥篇』『陳長興太極拳總歌』など。これらの著作は太極拳の理論を確立し発展させ、後世に大きな利益をもたらした。