陳式太極拳 第十代継承者(陳氏十八世)
陳照丕(ちんしょうひ)
1893-1972年
字績甫、河南省温県陳家溝 生まれ。
解放後、全国武術協会の会員を務め、「全国太極拳名家」の称号を授与された。
1958年、陳式太極拳の伝承活動のため北京から故郷である陳家溝に帰った。
現在、陳家溝出身の有名な陳式太極拳の人材は皆、彼の弟子、あるいは彼の孫弟子である。
1928年、北京(当時は北平と呼ばれていた)の有名な漢方薬店「同仁堂」の店主、楽佑申と楽篤同の兄弟が、陳家溝の陳氏十八世である陳昭丕に太極拳を学びたいと申し出た。
北京河南協会の清朝翰林の李慶臨は、温県北張羌村(陳家溝西北八裏)出身であったため、太極拳が自分の故郷で生まれたことを誇りに思っていた。
陳照丕が北京に到着した後『北平晚報』は「我が国の拳種は多様である」「学ぶ者が選択を間違えれば、剛者は骨や筋肉を痛め、柔者は実用的ではない」と広く宣伝した。「太極拳は剛柔相濟,渾然一元の武術であり、陳王廷、陳長興の名は既に中国全土に広まっている」「「現在、北京に陳長興公の四番目の孫である陳昭丕がいる。挑戦したい者はこの機を逃すな」
その後、新聞を手にし陳照丕と腕試しをしたいという挑戦者が後を断たなかった。
陳照丕はそれに応じ宣武門の武台に立った。そして17日間連続で200人以上と闘い、北京に敵なしと謳われた。
1929年、南京市長の魏道明は太極拳を教えるよう陳照丕を招待したが、北京武術界の弟子や友人たちは残留を主張した。
両者の意見を尊重するため、陳照丕は叔父である陳発科を代わりに推薦した。陳照丕は弟子たちに「私の三番目の叔父は私よりもはるかに優れており、今でも私の師である」 と伝え、こうして陳発科は北京に渡った。
文化大革命中、太極拳を含む武術の練習は反乱運動や派閥活動として中傷され禁止された。陳照丕は殴られ町中を引き回されたが、80歳近くの老齢であっても屈せず、後に太極拳は毛沢東の『語録拳』に編集された。
陳照丕は街を歩き、村人たちに陳式太極拳を教え過労で倒れて命を落とすまで伝承を続けた。
死去後、陳家溝の村人たちは陳照丕を偲んで墓地と記念碑を建てた。300年以上に渡る陳式太極拳の発祥と歴史の中で、継承者の墓地が設立されたのはこれが初めてである。
記念碑にはこう書かれている。
生涯をかけて太極拳の伝承のため尽力し、晩年は自宅で伝承を続けた。先祖から受け継いだものを子孫に伝え、陳式太極拳の普及の為に満身創痍で使命を果たした。陳式太極拳の発展史において多大な貢献をし、過去を引き継ぎ未来を切り開いた一代宗師、後世の人々はあなたを無限に称賛し尊ぶでしょう。これは永遠に人々の心に刻まれる碑文である。
陳照丕の没後、従兄弟の陳照奎も故郷である陳家溝に帰り弟子を取り伝承を続けた。