この言葉は、私が30代の頃に中国北京で八卦掌の第五代継承者である麻林城(ま りんじょう)老師より、八卦掌の教えを受けていたときにいただいたものです。
麻林城老師は修行に厳格な方で、指導の際は弟子たちに決まった練習量と課題を課します。その課題を期限内にこなせない場合は、指導を打ち切るという方針でした。
ですので、私は常に必死で課題に取り組んでいたのですが、老師から練習の成果を認めていただいても、次の課題のことを考えると素直に喜べませんでした。
いつも「まだまだ足りない」と感じていて、そのことを麻林城老師に申し上げると、麻林城老師はこのようにおっしゃいました。
未熟さとは単なる欠点ではなく、むしろ成長への可能性を秘めた状態であり、まだ多くの向上の余地があることを示している。
プレッシャーでフラフラになっていた私の心は「おおお!ありがたいお言葉」と一瞬打ち震えたのですが、いつも追い詰められている状態で感動するエネルギーも枯渇していたのか、すぐに冷静になり「それって当たり前のことでは?」と失礼なことを考えてしまいました。
しかし、次の麻林城老師のお言葉を聞いた瞬間、私は心ではなく魂が震えるほどの感動を覚えました。
私はまだまだ成長したい、師を求めている。しかし、私のような段階まで到達すると、教えを請える老師は極めて少ない。もはや誰からも学べなくなった時、自分で欠点を見つけ、それを改善することで成長する道しか残されていない。
「うわあああ、全然当たり前のことではなかったぁぁぁ!」と衝撃を受け、麻林城老師の求学心に感動しながら、自分もそうありたいと心に誓っていると、続けてこうおっしゃいました。
自分の欠点を見つけたとき、私は嬉しくなる。それは成長できる可能性を示す喜ばしい発見なのだ。どれほど練習を重ね、探究を続けても、もし自分の中に欠点を見出せなくなったとき、それは成長の限界に達したことを意味する。それこそが、最も悲しむべきことなのだ。
中国武術を学ぶ心得にとどまらず、人としてどう生きるべきか、何を喜び、何を悲しむべきかという、より大きな問題について、シンプルな言葉ですが深い教えをいただいたと思いました。
麻林城老師の言葉の背景には、修行半ばで師の許立坊老師を亡くされたことや、若くして最初の奥様と死別されていることに起因していると私は以前から感じていたので、改めて自分が今、心から信頼できる師のもとで八卦掌を学べている縁を、より一層大切にしていこうと思いました。