今から約200年前、中国河北省で董海川(とう かいせん)祖師が太極拳と同じ内家拳である八卦掌を創始しました。
最初の師 卜文徳老師の八卦掌
私が中国へ留学し太極拳を学んでいた頃、縁あって当時90歳の中華武林百傑である卜文德(ぼく ぶんとく)老師に八卦掌を2年間学ぶ機会に恵まれました。卜文德老師の八卦掌はト氏八卦掌と呼ばれ、少林門の力強い動きに八卦掌独特の高速回転が融合し、太極拳とは異なるしなやかな身法を持つ独特の風格がありました。
正統な八卦掌を求めて
私はこの八卦掌にすっかり魅了され、正統な八卦掌を学びたいという思いから、多くの資料を集め、知人に八卦掌を学べる武館や指導者がいないか知人に尋ねました。実際に数人の老師のもとへ赴き教えを請い、最後に程派八卦掌にたどり着きました。
程派八卦掌とは、董海川祖師の高弟である八卦掌第二代継承者程廷華(てい ていか)が伝えた八卦掌を指します。その風格は地上に舞い降りた龍の如く雄大で美しく、言葉では表現できない森羅万象の神聖さを帯びていました。
千変万化する八卦掌の螺旋の動き、そ当時太極拳を5年間学んでいた私にとって、その動きは大変魅力的でした。
また、女性特有のしなやかな体の動きに適していることも大きな可能性を感じる一つであり、特に探し集めた映像資料の中にあった麻林城(ま りんじょう)老師の演武は、当時、毎日毎晩のように何度も繰り返し見入ってしまうほど感動的なものでした。
生涯の師 麻林城老師との出会い

しかし、当時の麻林城老師は非常に保守的で、多くの情報を公開していなかったので、インターネットで連絡先を探してもまったく情報が得られず、手元にあった資料の出版社に尋ねても連絡先がわかりませんでした。「この老師に教えを請うことはできないかもしれない」と諦めかけていた頃、ようやく中国人の武術仲間から麻林城老師の生徒だという人の連絡先がわかったという情報が入りました。
私は早速その生徒に電話を掛け、麻林城老師は何処にいらっしゃるのかと尋ねると、中国中央テレビ局の《武林大会》という番組から依頼を受け、北京郊外の武術館で、出場選手の訓練にあたっているとのことでした。そこで、直接お会いして話だけでも聞いていただけないかと懇願しました。
なんとか麻林城老師にお会いできる機会を得た私は、当時住んでいた太極拳の発祥地・河南省から北京へ向かう寝台列車の切符を買い、翌々日には北京郊外の武館を探し当て、麻林城老師との初対面を果たすことができました。
麻林城老師は、お忙しい中突然訪れた私のような外国人にも礼を尽くしてくださり、穏やかに対応してくださいましたが、しかしその時は教えを請うことはできませんでした。
麻林城老師は私に「日を改めて来るように」と言ってくださり、再び指導に戻って行かれました。
河南省へ戻った私は、麻林城老師の八卦掌を本当に学ぶ心の準備ができているのか、何度も自分に問いかけました。
麻林城老師は武館を開いておらず、八卦掌を学ぶには大部分の時間を一人で練習に取り組まなければなりません。それがどれだけ孤独で、耐え続けることが難しいか、3年間の留学生活で痛いほどわかっていた私は、容易には決心がつかず、半年間考えた末、「やはりどうしても諦められない。どうしても麻林城老師の八卦掌を学びたい!」と決意し、一切合切の準備を整えて再び北京にいらっしゃる麻林城老師の元へ向かいました。
八卦掌修行で学んだこと
半年後に訪れた私を、麻林城老師は厳格な面持ちで迎えてくださいました。私のために一週間という時間を割いてくださり、氷点下の12月の空の下、ご自宅近くの公園で初めて八卦掌の指導を受けることができました。
それまでの私は「短い留学期間でいかに多くのことを学ぶか」に囚われ、焦りと疲労から思うように練功を進めることができずに悩んでいました。しかしその日、麻林城老師の指導法における「系統性」と「科学性」、そして「拳理」の奥深さに触れ、開眼するような衝撃を受けました。
華麗で変幻自在な八卦掌は、映像を見るだけではその動きの一部分ですら把握することはできません。しかし、正しい練習方法で基礎から着実に学べば、一見難しそうな動きでも一つずつ体が順応し、自然に動けるようになります。
そして、そのしなやかな八卦掌の螺旋の動きは、足腰を鍛えるだけでなく、全身の経絡の流れを促し、潜在的な能力を目覚めさせます。自然の運動法則と一体となるこの特殊な練功方法は、高度な精神修養でもあると言えます。
闇雲な運動は疲労と消耗を招くだけですが、正しい練習を積めば「心身を養う」ことができるのです。
以前の私は、長時間の立ち仕事や長距離の歩行での際に貧血気味になる体質でしたが、公園で行う八卦掌独特の歩法の練習では、2時間以上歩き続けてもほとんど疲労を感じることはなく、心(精神)を入静(集中)しながら、恵み豊かな自然の力を感じることができるようになりました。
私の学んだ八卦掌
中国伝統武術界には、代々受け継がれてきた厳格な礼節としきたりがあり、独特の『口伝』『体伝』『心伝』『神伝』という伝承方法を用い、師と弟子が一子相伝で真剣に伝授する厳しい世界ですが、その厳しいしきたりの中で、私は多くの大切なことを学びました。
厳しさの中には、師への敬愛と仲間への思いやりの心があります。そして生命を慈しみ、人生に勇敢に立ち向かう意義を学ぶことができます。
現代に生まれた一人の女性として、なぜ中国伝統武術を学ぶのかと問われたら、私はこう答えます。
「中国伝統武術とは、中国の偉大な先人たちが遺した精神と身体の高度な鍛錬方法であり、天地と共に生きる秘訣だから」
それが私の学んだ八卦掌です。

