REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

中国伝統武術界の礼節

卜文徳老師のもとで

2006年2月上旬、河南省に渡って初めての春節。

陳正雷老師にお招きいただき、ご自宅で過ごさせていただいた新年は、とても温かな雰囲気に包まれていました。

陳正雷老師ご自身がとても温和な人柄であること、そしてご長男(陳氏二十世)がイギリス留学の経験を持ち、国際的でユーモアのある方だったことが理由だと思います。

ご長男とは、太極拳館で実際に指導を受けたことがあり面識があったため、ご自宅の中を案内していただき、たくさんの写真を見せていただいたあと、リビングで年越しの伝統的な食事である「水餃子」をご馳走になりました。

中国の水餃子は、日本のスープ餃子とは違い、茹で上げたものをそのまま酢醤油につけて食べるのが一般的です。さらに春節の時は、家族で食べる餃子の一つに硬貨(現代では洗ってきれいにした紙幣)を入れておくのだと聞きました。

その餃子を食べた人が、その年にいちばん福のある人になるそうで、一年の大切な決め事や行動の際には、自分が先に立って導く習慣があるのだというお話も聞かせていただいて、とても素敵な風習だと感じて深く印象を受けました。

この日私は、太極拳発祥の地である河南省の省都・鄭州市でスーパースターだった陳正雷老師のご自宅に招いていただいたことで、内心有頂天になっていたのですが、外国人に慣れているご家族のおかげで、大きな失態をさらすこともなく、楽しく貴重な体験をさせていただきました。

しかも、陳正雷老師は「春節の時期はタクシーが見つからないから」とおっしゃって、ご親切にもお住まいの高級団地の入り口まで見送ってくださいました。

運良く、入り口で乗客を降ろしているタクシーが見つかり、すぐに乗ることができたのですが、さらにありがたいことに、陳正雷老師が運転手に「無事に自宅まで送り届けてください」と伝えてくださったので、おかげで帰り道は、行きの『恐怖のタクシー』のような目に遭わずに済みました。

ところが、その翌日に卜文徳老師のご自宅へ拝年のご挨拶に伺った際は、そう簡単にはいきませんでした。

卜文徳老師のご自宅の壁に飾られていた賞状やメダル、記念写真
卜文徳老師のご自宅の壁に飾られていた賞状やメダル、記念写真

拝年の席には、卜老師をはじめ、お弟子さん方、老師のご家族やご親戚が集まり、新年を祝う円卓を囲みます。

どの席に座ればいいのか、どう挨拶をすればいいのか、私には何もわかりません。外国人なのでお客様扱いをされているような、されていないような、それすら判断がつきません。自分の立場が一般の学生なのか、弟子なのか、留学生なのかも見当がつかないので、仕方なく30歳という年齢を踏まえて、学生の立場で振る舞うことにしました。

卜老師に勧められるがまま、私は老師のすぐ右隣の席に座りました。

食事が始まると、お弟子さんたちが次々と白酒(アルコール度数50度以上のスピリッツ)を注いでくださいます。「断るのは失礼なのではないか?」と思った私は、まるで“わんこそば”のような勢いで注がれる白酒を(アワアワ……)と思いながら飲み続けました。

周りでは、祝辞の言葉を述べながらお酒を酌み交わしています。

(自分も何か言わなきゃいけないような気もするし、外国人だし弟子でもないのに、言うとでしゃばりなような気もするし、どっちなんだろう。困ったな)

とはいえ、喋れと言われても、お決まりの台詞なんて知らないので喋れません。無理難題だと思って、私は途中で諦めました。

卜老師やお弟子さん方は嫌な顔ひとつされませんでしたが、ご親戚の女性の方々の視線が、冷たく感じられます。自分が何かまずいことをしているような気はするのですが、何がまずいのかがわかりません。何をどうすればいいのかわからないので、私は拝年の席に参加したことを後悔しながら、早く時間が過ぎないかと、ずっと下を向いて、次々と注がれる白酒を飲み続けました。

気がつくと翌朝で、私は自宅のベッドに横になっており、卜老師の女性のお弟子さんからの電話で目が覚めました。

「メイダイヅ、大丈夫? 昨日はフラフラだったわよ」

「え~、あ~、大丈夫です。どうも、本当にすみませんでした」

電話の主は、卜老師の得意弟子の女性の先輩でした。前の晩、男性の先輩と二人で、私を家まで送ってくれたのです。

飲み慣れない白酒を一体どれくらい飲んだのか、自分でも覚えていません。

後日談|あの席の意味

卜老師のお宅の円卓で、私は何も知りませんでした。以下は、その後、人から聞いたり、何度も会食に参加したりする中で覚えたことです。

その一、座る位置
卜老師に勧められて、すぐ右隣の席に座ってしまった。
右隣は老師の一番弟子が座る席。勧められたからといって、新顔が座っていい場所ではない。
通常は、右①、左②、右③、左④の順に、左右交互に立場の上の人物から座っていく。
末席には一番新しい弟子、もしくは学生が座る。では、末席とはどこか。自宅ならキッチンに近い席、飲食店の個室なら店員が出入りするドアの近く、オープン席なら人通りの多い席で、給仕係を担う位置。
間違っても店員にすべて任せて、のんびり食事をしてはいけない。

その二、女性の飲酒
勧められるがままに、どんどん飲んでしまった。
これは中国伝統武術界特有の礼節ではないが、老師の家族が参加している場合、とりわけ女性の家族がいる場合、女性の学生が飲酒すると顰蹙を買う。
一般的な常識として、中国北部では公の場で女性が酒を飲むことはほとんどない。
しかも、太極拳の発祥地でもある中国北部では、体を冷やすビールは夏場にしか飲まない。中国武術家は体を冷やすことを嫌うため、酒を嗜む場合は夏でも白酒(アルコール度数50度以上のスピリッツ)を飲むことが多い。
「断るのは失礼なのではないか?」という気遣いから、勧められるがまま、注がれるがままにどんどん飲んでいると、必ず酔い潰れる。

その三、飲酒の席の作法
自分のペースで飲んでしまった。
中国の会食では、祝辞を述べながら全員で一緒に酒を酌み交わすのが一般的。日本のように各自のペースで飲んだり、隣同士だけで会話をしたり、個別に追加注文したりしてはいけない。手酌も厳禁。
会食中の祝辞は、暗黙の了解として、その日の状況に合わせて一定の間隔で順番に立席し、必ず老師や目上の人に感謝の言葉を述べてから、「敬一杯」と言って一口だけ飲む。つまり、飲みたいから飲むのではなく、老師や兄弟子への日頃の感謝を込めて杯を捧げるのである。
「乾杯」という言葉もあるが、文字どおり杯が乾くまで、つまり一気に飲み干すことを意味するため、滅多に使わない。

こうした礼節は、中国人であっても、逐一教えてもらうものではありませんでした。場に入り、周りを見ながら、経験を通して覚えていくものです。

数え上げればきりがありません。何度思い出しても赤面して、緊張で汗が吹き出します。

初出 2011年1月

 つづく