混元太極拳創始者
馮志強(ひょうしきょう)
1928年1月11日‐2012年5月5日午後
河北省束鹿県(現在の辛集市)生まれ
陳式心意混元太極拳 創始者
陳式太極拳 第十八代継承者
中華武林百傑(筆頭)
中国武術段位・九段(最高段位)
中国武術協会 会員
北京武術協会 副会長
北京陳式太極拳研究協会 会長
志強武館 館長
中国内外の100以上の武術団体で名誉会長、顧問、総教練を歴任
武術一家のもとに生まれた。曽祖父である馮老梅は清朝末期の武術家で、乗馬と射撃が得意で高い身体能力を持ち、弓術と剣術に優れており武術の才能を持っていた。
馮志強は幼少期に曽祖父のもとで武術の動作を真似て過ごしたことから、武術に強い関心を抱くようになった。
8歳の頃より叔父の王運(最初の師)から少林童子功などの拳法や站椿を毎日学び、勤勉な性格から数年で大きく進歩した。
12歳になった頃には、活発な性格で義侠心に富み、不正に屈せず弱者を助ける少年に成長していた。
そんな馮志強が問題を起こさないか心配した家族は、知り合いに頼み北京で家電修理店や百貨店などで見習いをさせた。
15歳の頃、北京春明修理工場に正式に入社し、変圧器や発電機の修理技術を学んだ。
17歳の頃、通背拳、鉄砂掌、点穴、軽功などの高い武功を持つ韓暁峰(二番目の師)に師事。厳格な要求のもとに鍛錬を重ね、木杭を蹴り砂袋を打つなどの苦練を積み、鍛錬の後は薬水で掌の解毒をした。その努力が実り北京の武術界で名が知れ渡るようになった。
18歳で結婚し家庭を持ったが、その後も日中の労働と夜間の鍛錬に励み、多くの武術の達人たちとの交流を深めた。
22歳より、北京の名医であり「単指震乾坤」(指一本で天地を揺るがす)と称されていた心意六合拳の大家である胡耀貞(三番目の師)に師事、内家気功と心意六合拳の真伝を受け武功は大いに高まった。
24歳の頃、馮志強の武才と人格を高く評価し将来を有望視した胡耀貞は、自らの宗派主義を放棄し、陳式太極拳九代継承者であり「太極一人」と呼ばれていた陳発科(四番目の師)に推薦し、馮志強を大いに気に入った陳発科は喜んで弟子として受け入た。
陳式太極拳の名師と兄弟弟子に恵まれた馮志強は、毎日鍛錬と研究に励みますます武功を高めた。その成果を見た陳発科は馮志強に息子である陳照奎(陳式太極拳第十代)の指導を任せるようになった。単独で陳式太極拳を指導する機会が増えた馮志強は、太極拳理の体系的な解説や技撃の模範を反復する過程で8回に渡る改拳をし、深淵な太極拳の真髄を体得した。
同時期に馮志強は胡耀貞に心意内功を学び、毎日8時間に及ぶ鍛錬の日々を送り「双学」を堅持した。
こうして陳式太極拳の纏絲と心意六合拳の内功を同時に深めた馮志強の武功と武徳は非常に高い境地に至り、やがて多くの武術家たちにより称賛されるようになった。
30歳の頃、国営北京電気機械工場の管理者を勤めていた馮志強は、10箇所以上の工場と200人に及ぶ工員を管理していた。自宅と工場は20キロ以上離れており、毎朝5時に自転車で仕事に向かい帰宅するのは夜の10時になることもあった。工場での勤務は多忙を極めたが、時間を惜しみ武術の鍛錬を続けた。
文化革命の時期、馮志強は「一不怕苦,二不怕死」「抓革命,促生产」(苦しみも死も恐れず、革命と生産を推進する)というスローガンのもと工場の工員を率いていた。この時期、武術を鍛錬する時間は大幅に減少し、健康状態に深刻な影響を及ぼした。
1976年8月、香港などから有名な武術家たちが交流のために太極拳発祥の地である陳家溝を訪れる準備を進めていた。陳家溝党支部書記である張蔚珍は陳家溝の太極拳の継承が滞っている現実に直面し、自ら北京に赴き馮志強に助力を仰いだ。馮志強はその申し出を快く引き受け、初めて陳家溝に行き陳式太極拳を演武し指導を務め、その正統な風格は全ての来場者を魅了した。
1979年4月、香港の映画会社「新聯」は陳家溝を訪れ、陳式太極拳に関する大規模な記録番組を撮影した。この時、馮志強は再び陳家溝に招待され、陳式太極拳を演武し指導した。
1981年、馮志強は国営北京電気機械工場を早期退職し、太極拳の研究と錬磨に専念した。長期に渡る過労が原因で患った健康不良は短期間で回復し、武功と技術も向上した。
以後、馮志強は全精力を陳式太極拳の発展と革新に注いだ。
1985年、北京に「志強武館」を設立し、混元太極拳(正式名称:陳式心意混元太極拳)を創始。中国国内外から多くの人々が混元太極拳を学ぶために訪れるようになった。
馮志強の創始した混元太極拳は中国国内に留まらず、世界中で学ぶ者が増え、陳式太極拳と並び、現代に正統な太極拳を伝承し普及した功績は大きく、2012年に逝去した後も、馮志強の神格化された武術の功夫と深い人徳を愛する武学者は後を絶たない。
【有名な弟子】
陳項、など。