歴史

世界中に普及し、愛好者人口は1億2千万人以上といわれる太極拳の起源は陳式太極拳と呼ばれ、河南省温県にある小さな村「陳家溝」(ちんかこう)を発祥地とする。創始者は陳氏九世の陳王廷であるとされ、約400年以上の歴史があると史書に記されている(2025年現在)
陳家の始祖 陳卜(ちん ぼく)
陳式太極拳の起源は、その祖先である陳卜にまで遡ることができる。
発祥地である陳家溝は温県城から東に5キロ離れた青風嶺に位置し、約600年前は陳家溝ではなく常陽村と呼ばれていた。
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元朝の終わり、天下大乱の時代。朱元璋は反体制派を徐々に排除し、明王朝を建国した。
明の兵士が懐慶府(温県の管轄下にある8つの県の1つ)を攻撃したとき、元朝の守城大将の強固な抵抗に遭遇し、明の兵士は長い間攻略できず大多数の死傷者が出た。
都が崩壊した後、朱元璋は怒りを懐慶府の民に向け、軍隊を派遣して罪のない人々を虐殺し、懐慶の一府8県は人口がほぼ壊滅した。
朱元璋はその後、移民たちにその荒地を取り戻すため開拓と農業を命じた。
歴史書によると、 朱元璋は洪武初期、自らの統治を強化するために移民による開拓など一連の回復政策を実施している。
山西省は4つの山で隔てられているため、歴代の戦乱の影響が少なく人口が密集していた。
朝廷は山西省洪洞県に移民局を設置し、三回に及ぶ大規模な強制移民を強制し、懐慶府を含む飢餓や戦争で人口過疎地域への住民の移住を大規模に三回に渡って強制した。
これらの移民の中には、洪洞県出身ではない人もいたが、彼らはみな当時洪洞県にあった大槐樹の下より出発したため、各地に「我らの先祖は山西省洪洞県の大槐樹より来たり」という言い伝えがある。
陳家溝の陳家の始祖である陳卜は、山西省澤州郡(現在の今晋城市)の出身であった。
朝廷の大規模な移民政策があった頃、陳卜一家は飢餓から洪洞県へ逃れたが、その後、明朝洪武5年(西暦1374年)、再び役人によって河南懐慶府(現在の沁陽市)への移民を強制された。
陳卜と移民たちは、土壁に草葺き屋根の家を建て村を作った。
陳卜は深い人徳を持ち、武術に秀でていたので村民たちの尊敬を集め、村は「陳卜庄」と名付けられた。もともと沁陽にあったが解放後に温県に編入され、現在でも陳卜庄と呼ばれている。
2年間そこで暮らした後、陳卜は陳卜庄の地理が低地にあり頻繁に洪水に見舞われてることを案じ、家族と共に常陽村に移住した。
この頃、常陽村近くの山中には山賊の一団がいて、略奪のため度々村を襲撃していた。
これに屈しなかった陳卜は立ち上がり、村の若者たちを率いて山賊が寝ている隙に山賊が棲家としていた洞窟に忍び込み、一夜にして殲滅させた。
太極拳のルーツとなった武学社を設立
この出来事以降、陳卜の名は四方に轟き多くの人々が武術を学びに陳卜庄に訪れた。陳卜は村に武学社を設立し、弟子を取り武術の伝承を始めた。
『温県志』には、この武学社は「陳家武術の源流である」と記録されている。
その後、陳一族は繁栄し村の大家族となった。陳家武術は高い評判を得て、村内に大きな溝が三本あったため、人々は次第に常陽村を陳家溝と呼ぶようになった。
200年以上の月日が流れ、陳一族は代々に渡って武術、農業、学問を実践し、六世まで同居し、七世で分家、一族を繁栄させた。
九世まで受け継がれた頃、陳一族から逸材が現れた。
後に太極拳を創始した陳卜の九世代目にあたる陳王廷である。
太極拳の誕生
『温県志』によると、「陳王廷の拳術の腕前は明代後期にはすでに頭角を表し研究されていた。これが子々孫々へと受け継がれ、太極拳と呼ばれる無二の武術となった」と記載されている。
陳王廷は武術において類い稀な才能を持ち学問にも精通していたが、王朝交代の動乱期であったため、長く志を得られず、晩年には門を閉ざして外出もせず、各流派の武術を潜心研究し、その違いを比較して真髄を究めた。
家伝の拳術にその他の流派の技術を組み合わせ、陰陽論や中医経絡学、道家の導引や吐納養生術を取り入れ、太極陰陽論、剛柔相済を備えた拳術を創造し「太極拳」と名づけた。
創始者である陳王廷の名が陳であったため、この太極拳は陳氏太極拳(陳式太極拳)と呼ばれ、全ての太極拳の源流となっている。
陳王廷は現代に至るまで「太極拳の始祖」として世界中の太極拳愛好者に尊ばれている。
系譜
陳氏の祖 陳卜
陳式太極拳 開祖(陳氏九世)陳王廷
第二代継承者(陳氏十世)陳所楽、陳汝信
第三代継承者(陳氏十一世)陳正如、陳恂如、陳申如、陳大鹏
第四代継承者(陳氏十二世)陳敬柏、陳継夏、陳善志
第五代継承者(陳氏十三世)陳公兆、陳秉奇、陳秉壬、陳秉旺
第六代継承者(陳氏十四世)陳長興、陳有恒、陳有本
第七代継承者(陳氏十五世)陳清萍、陳仲牲、陳耕耘
第八代継承者(陳氏十六世)陳垚、陳淼、陳鑫、陳焱、陳森、陳延熙
第九代継承者(陳氏十七世)陳発科
第十代継承者(陳氏十八世)陳照丕、陳照奎、馮志強
第十一代継承者(陳氏十九世)陳正雷、陳小旺、王西安、朱天才
開祖 陳王廷
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1600-1680年
字奏庭
家系に受け継がれた拳法にその他の流派の技術を組み合わせ、陰陽論や中医経絡学、道家の導引や吐納養生術を取り入れ、太極陰陽論、剛柔相済を備えた太極拳を創造した。
陳王廷の出現以降、陳家溝の村人たちは広く太極拳を修め、この伝統は老若男女問わず代々受け継がれてきた。
陳王廷の祖父である陳思貴は、狄道県(現在の甘粛省の一部)典史(元朝によって設置され、明朝に続いて奉行の下にある下級官吏として設置された)で、盗賊を捕まえる中尉であった。
また、父である陳撫民は征士郎(勅令によって採用された学者のこと)を務めており、陳王廷は四人兄弟の次男であった。
第九代継承者(陳氏十七世)陳発科
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1887年‐1957年
字福生、河南省温県陳家溝 生まれ。
幼い頃から父の陳延熙(陳式太極拳第八代)より家伝であった陳式太極拳を学んだ。深い功夫と高い技術の持ち主で、近代の陳式太極拳の代表的人物であり、太極拳の発展と普及に多大な貢献をした。北京国術館館長。
1928年、陳発科が初めて北京に渡った頃、北京国術館の副館長である許禹生、李剣華など、多くの武術家たちによる腕比べが行われたが、陳発科の功夫は比類なきものであった。この時のことを楊季子が詩として残している。
北京において約30年間に渡り陳式太極拳を伝承し、その武徳の高さから北京武術界より「拳術大師」「太極一人」と称され、記念品として銀の盾を授与され、分野の人々の注目を浴びた。
また、陳発科は生涯をかけて陳式太極拳の老架式を基礎として、新架式を編み出した。この新架式は纏絲と発勁が多く難易度が高いため、功夫の修得時間を短縮させる効果があった。剛柔を併せ持ち、采、捩、肘、靠、拿、跌、擲、打、などの用法を使いこなし、高い技術と実戦法を持ち、勝つことを目的とし、目に見えぬ力で人を投げ飛ばし、海外では陳発科を「聖拳」と呼んだ。
第十代継承者(陳氏十八世)陳照丕
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1893-1972年
字績甫、河南省温県陳家溝 生まれ。
解放後、全国武術協会の会員を務め、「全国太極拳名家」の称号を授与された。
1958年、陳式太極拳の伝承活動のため北京から故郷である陳家溝に帰った。
現在、陳家溝出身の有名な陳式太極拳の人材は皆、彼の弟子、あるいは彼の孫弟子である。
文化大革命中、太極拳を含む武術の練習は反乱運動や派閥活動として中傷され禁止されていた。陳昭丕は殴られ町中を引き回されたが、80歳近くの老齢であっても屈せず、後に太極拳は毛沢東の『語録拳』に編集された。
第十代継承者(陳氏十八世)陳照奎
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1928年1月24日-1981年5月7日
陳発科の息子。
4歳で父親とともに北京に渡り、7歳で父親より陳式太極拳を学んだ。
陳式太極拳理論に精通し、擒拿(組み技)や技撃法を得意とし、絶妙な攻防技を得意とする。
1960年代初頭、父親の遺産を伝承するために北京での仕事を辞め、上海体育宮に赴き太極拳を教えた。彼の卓越した武術は上海武術界に衝撃を与えた。
その後、上海や南京などで100以上の陳式太極拳教室を開講し、学生は数千人に及んだ。当時、上海と南京の新聞記事として大きく取り上げられた。
第十一代継承者(陳氏十九世)陳正雷
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1949年5月17日
河南省温県陳家溝生まれ。
陳式太極拳「四天王」の一人
河南省武術協会副主席
河南省武術管理中心副主任
河南省太極健身培訓中心総教練
国家武術高級教練
中国武術協会委員
中国十大武術名師の一人
中国武術段位・九段(最高段位)
中国無形文化遺産
2歳の時に父親を亡くす。その後、母親が再婚したため50歳以上も年上の叔母のもとで暮らすことになった。叔母は度々発作を起こし、陳正雷は学校へ通いながら叔母の世話をするという幼少期を送った。
8歳より太極拳を学ぶ。小学校を卒業したその年、陳式太極拳第十代継承者である陳照丕が引退し、陳家溝で太極拳を教えるために故郷に戻った。
特徴
全ての太極拳の源流
陳式太極拳の最も代表的な特徴は、現在世界中に普及している太極拳の源流であり、全ての流派の太極拳は陳式太極拳から派生したものである、ということである。
中国伝統思想と医学の体系化
河南省温県の陳家溝を発祥地とし、開祖である陳氏九世の陳王廷が代々伝えられてきた家伝の拳術に、古代導引術と吐納術、易経の陰陽理論と伝統中医学の経絡学を導入し創始された陳式太極拳は、身体を鍛えるだけではなく学習初期の段階からまず初めに内面を修めるという特徴を持つ。中国の歴史が作り上げた中国伝統思想と医学が説いた中庸(バランスの取れた最も良い状態)を直接人体で体現していく学習体系を持っている。
多様な円運動と豊富な型
陳式太極拳は全ての動作を「纏絲勁」(てんしけい)と呼ばれる螺旋運動で行うことが、他の武術には見られない特徴的な違いである。
功夫の基礎となる動作は一路と二路と呼ばれる套路(型)から構成されており、一路は柔を主とした雄大で大車輪のような円運動を特徴とし、柔の鍛錬を重ねて剛の力を生む。二路は一路で培った剛柔の力を運用し、高速で力強い動作を多く含む。
また多種多様な武器法や推手などの鍛錬方法があり、豊富な型を持っている。
史料と拳書が存在する
太極拳の全ての動作は人体生理学に即しているだけでなく、大自然の法則とも完全に一致している。また、第八代継承者(陳氏十六世)陳鑫が『陳氏太極拳図説』という書を残しており、後の継承者たちによって整理され確立された拳理と鍛錬方法は非常に完成度が高く優秀であり、拳書が残されていない多くの中国伝統武術の貴重な指南書となっている。
派生した太極拳の種類
楊式太極拳
創始者 楊露禅(1799年-1872年)
河北省永年 生まれ
陳長興(陳式太極拳第六代継承者)に師事し、陳式太極拳を学んだ後、王府で改変した太極拳を教えた。その太極拳を息子である楊班侯と楊健侯が更に改変を加え、孫である楊澄甫が定型し、現在広く普及している楊式太極拳を完成させた。
武式太極拳
創始者 武禹襄(1812年-1880年)
河北省永年 生まれ
楊露禅に太極拳を学び、その後、陳清萍(陳式太極拳第七代継承者)より陳式太極拳を学んだ後、武式太極拳を創始した。
呉式太極拳
創始者 呉鑑泉(1870-1942年)
河北省大興県 生まれ
楊露禅と楊伴侯より太極拳を学んだ呉全佑の息子である呉鑑泉が創始した。
孫式太極拳
創始者 孫禄堂(1860年12月22日-1933年12月16日)
河北省完県東任家瞳村 生まれ
郝為真(武式太極拳第三代継承者)より太極拳を学び、程廷華より八卦掌を学んだ。後に太極拳・八卦掌・形意拳を融合し、独特な開合動作と高い姿勢、巧みな歩法の特徴を持つ孫式太極拳を創始した。
簡化太極拳(制定拳)
1952年に毛沢東が国民の体力向上を目的として太極拳を推奨し、1956年に中国国家体育運動委員会が楊式太極拳をもとに他の流派の太極拳を取り入れ整理し創編した太極拳。
簡化太極拳二十四式
簡化太極拳四十八式
簡化太極拳八十八式 など
競技太極拳(競賽套路)
中国国家体育運動委員会と武術研究院の専門家たちにより、陳式、楊式、武式、呉式、孫式の 5 つの伝統太極拳流派の競技用套路を創編した。
陳式太極拳五十六式
楊式太極拳五十六式
吴式太極拳四十五式
武式太極拳四十六式
孫式太極拳七十三式
練習方法
一、練理不練力(理を練って力を練らず)
「理」とは太極拳の道理であり原理のことである。太極拳で練るのは大道、すなわち太極の陰陽転換における「陽極まれば陰生じ、陰極まれば陽生ず」という原理である。
太極拳は剛の中に柔を宿し、柔の中に剛を宿し、剛柔が互いに調和している。虚が極まれば実を生じ、実が極まれば虚を生じ、虚実は転換する。精神を集中させ、意で気を導き、気で身を運び、意が至れば気が至り形が従うという練習を通じ、一つの動きが全体の動きとなり、全身が互いに従い、内外が合一する。練習の際は規律に従い、自然の流れに任せ、成果を急いではならない。
「力」を練るというのは気力を鍛えることを指すが、この種の練習は部分的な力を大きくするものの、その力は不器用で固く、しなやかさに欠け、太極拳家が好まないものである。
二、練本不練標(本を練って標を練らず)
「本」とは本源、根本を指し、すなわち「腎中の元気」と「下盤の功夫」のことである。
腎は元陰元陽を蔵し、先天の根本であり、気を発する源である。腎気が充足すれば五臓が養われ、肝、心、脾、肺、腎がそれぞれの働きを果たし、そのため精力が充実し、力は満ち、反応が敏捷となり、全身が協調する。内気が充実することが本源の一つである。
二つ目は、全身を放松させることを基礎とし、気を丹田に納め、湧泉に沈め、上盤が機敏で、中盤が活発で、下盤が安定し、地に根を下ろすことを指す。
「標」とは身体の各部位の力と硬さを鍛えることを主な目的とする部分的な練習方法を指す。太極拳は内功拳であり、内外ともに修練するが、内を練って元を培うことを主とし「根を培い源を潤す」「その根を培えば枝葉自ずと茂り、その源を潤せば流脈自ずと長ずる」のである。
三、練身不練招(身を練って技を練らず)
「身」を練るとは全体の功力を練ることであり「招」とは攻防の技の意味である。
太極拳を始めたばかりの人は、往々にして各技法の使い方を知ることに夢中になる。もし技の形だけから太極拳の用法や内容を解釈し理解しようとすれば、太極拳の真髄を得ることはできない。
太極拳の練習には、套路に熟達し、動作を正確にし、固さを取り除いて柔らかさを求める過程を経なければならず、それによって全身が呼応し、内外が一致し、内気が充実し満ち溢れ、功夫が身に付く。
太極拳は主に自身の全体的な功力を訓練するものであり、実際に相手と対峙する際には客観的な状況に応じて、己を捨てて相手に従い、臨機応変に反応し、一つの技や形にこだわることはない。
内気が充実すれば、全身はまるで気で満たされた球体のようになり、どこに触れてもすべてに反応し、どこに触れてもそこから打撃を繰り出せる。拳論が述べるように「完成の域に達すれば、敵がどのように来ようとも自然に対応でき、考えるまでもなく、おのずと方法が生まれる。」