北京の防寒対策と風邪

2005年2月、生まれて初めて中国寒冷地の冬の洗礼を受けた私は、志強武館の事務所の女性のアドバイスを聞いて保暖内衣(バオ ヌゥアン ネイ イー)を買いました。

保暖内衣とは、厚い裏起毛の上下セットのインナーで、値段はピンからキリまでありますが、安価なものを買うと保温効果と伸縮性と肌触りがイマイチなので、不舒服(ブゥ シューフ)、つまり気持ち良くありません。

中国で買い物をするには、質の良い物を見抜く目と交渉術を身につけなければ、たとえ財布の中に人民元がたくさん入っていても必要なものを買えません。特に日本人が苦手な価格交渉に関しては、おおよそ必要ないだろうと思われるような高級なデパートでも必要でした。それができないと法外な値段で買う羽目になるだけでなく、中国人曰く価格交渉は生活のリズム感や楽しみでもあるので、醍醐味が感じられない留学生活を送らなければならなくなります。習得は必須でした。

もちろん当時の私は、見る目も交渉術も身に付けていなかったので、いつも買い物は失敗していました。中国人の友人と一緒に買いに行けば良いものを選んでもらえるのですが、それではいつまでたっても外国人のままなので、失敗しても何度も自分で再チャレンジしました。

私が買った最初の保暖内衣は、安物だったので硬くて締め付けがきつく、太極拳の練習に着用すると繊細な動きがまったく感じられなかったので大失敗でした。

二度目に買ったものは、着た直後からビヨンビヨンに伸びてしまい、全く保温効果を感じられず、混元太極拳二十四式の練習を終える前に、ズボンの股上が太腿の真ん中まで落ちてしまいました。

三度目に買ったものは、まあ何とかそれなりに練習できたので一応納得することにして、私は武館に戻って太極拳に専念することにしました。

しかし、それではまだ甘かったのです。

中国北部の武術愛好家は冬期の練功着の選び方がとても上手です。暖かくて通気性もあって動きやすい重ね着の方法を知っています。

南国宮崎出身の私は、無論、何も知りません。

18歳から26歳まで東京に住んでいましたが、冬でもオープントゥパンプスを履いて通勤していました(それは知らなさすぎ)

「たくさん着れば暖かい」という概念しか持ち合わせていなかったので、保暖内衣の上にシャツ、ざっくりと編まれたセーター、薄手のウインドブレーカー、仕上げにお気に入りのパウダーブルーの厚いジャケット(汚れが目立つから北京の冬にそんな色は着るなとしょっちゅう言われていた)を着こみ、武館に行って練習をしていました。

そして「脱いだり着たりして体温を調節する」という手段を知らなかった私は、せっかく苦労して何枚も着たんだし、脱いだら寒いので、その格好でずっと練習していました。

暖かい保暖内衣とウインドブレーカーとジャケットで、私は毎回たっぷり汗をかきました。

そして、すべての授業が終了する夕方5時になると、汗が引かないまま練習を終えて、北風吹きすさぶ北京市内を武館から北京市の地下鉄「国貿駅」附近のバス停まで15分以上かけて歩き、なかなか来ないバスを延々と待っていました。

北風の強い日は、空上のスモッグは全部吹き飛ばされて、氷のように白い月が夜空で輝いていました。

バス停の行列に並びながら、私の汗も氷水のように冷え、薄手の太極拳シューズを履いていた両足は、凍えて感覚がなくなりました。

子供の頃から滅多に風邪を引かなかった私は「寒いと風邪を引く」というのは迷信だと思っていたのですが(それまで寒さが原因で風邪を引いたことがなかった)しかし、このときは3日で見事に風邪を引いて熱を出しました。

1週間寝込んで、少し良くなって、また武館に行って練習して、再び風邪をぶり返す……

それを何度か繰り返してさすがに懲りた私は、真剣に衣服の調節について研究しました。

つまり、

  1. 移動中は底の厚い靴に履き替える
  2. 練習着は通気性のある棉の素材の服を重ね着しても風を通すので意味がない、保温効果の高い羽毛をたっぷり使っている動きやすい柔らかめのダウンジャケットを着る
  3. ダウンジャケットの丈はショートだと腰(命門)から冷気が進入するので、膝上まであるハーフを選ぶ
    (ロングだと足を開けない、ハーフだと着たまま単鞭もできる)

これなら必要以上に重ね着をしなくても暖かいし、何より動きやすいので疲れません。

周囲の人たちを観察して、そういう着こなしが必要なことが分かったのはいいのですが、ショップへ行っても肝心の実物を見つける目利きがありません。それから店頭に並ぶ現地の人が好む原色の服、つまり日本人からするとド派手な色の服たちに心がめげてしまい、何色も選べぬまま疲れ果ててショップを立ち去る日々が続きました。

そこで私は、素直に諦きらめました!

気がつけばもうすぐ4月になろうとしていたし、そのうち春はやってくるだろうし、来年の冬までには色々な知識もついて、最適な冬季の練功服も選べるようになっているだろうし、という前向きな希望を持って、その年の冬は諦めることにしました。

週に数回武館に訪れる陳項(チェン シィアン)老師は、いつも青白い顔の私を見ると、

「また冷えたんだろう、胃を温めなさい。薬局へ行って温胃舒(ウェンウェイシュー)という漢方薬を買いなさい。1箱1週間分だから、5箱買いなさい、漢方薬だから副作用はないから」といつも勧めてくれました。

こうして、私の中国留学初となる越冬は、風邪と胃痛の合間に太極拳の練習をする、という不健康なものでした。

排気ガスの濃度が高くて市街地にある武館に行けない日は、家で辛くない火鍋(ホゥオ グオ = 中国式鍋)を作って食べて寝るか、空気の良い日は陳項老師のご自宅近くの公園で気功の練習をするか、どちらもできない日は、ただひたすら自宅のベッドに横になり、シックハウス症候群に苛まれながら何日も過ごしました。

虚ろな意識で「早く春が来て、暖かくなって、武館も賑やかになって、また陳項老師やマイケルさん、それから名前はわからないけど優しそうな人たちと一緒に公園で練習がしたいな」と思って春を待ちました。

初出 2010年8月

つづく

この記事を書いた人

日本中国伝統功夫研究会の会長。八卦掌と太極拳と華佗五禽戯の講師。中国武術段位5段/HSK6級/中国留学歴6年(北京市・河南省)

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