2004年10月。
秀茜老師の混元太極剣の特訓が一旦終了した私は、志強武館と、歩いてわずか30秒ほどしか離れていない旅館との往復の日々に、退屈を感じ始めていました。
北京に着いて1週間ほど経った頃のことです。武館に併設された按摩学校の学生で、いつも門のところで話していた3人のうち、社交的な小王という青年が、まず私に話しかけてきました。私が中国語が分からずきょとんとしていると、その様子を見ていた小钱(シャオ・チエン)という青年が、後で私が一人になった時に、「授業は終わった? ご飯は食べた?」というような簡単な中国語で、笑顔で話しかけてきたのです。
そうして、私には中国語を教えてくれる友人ができました。小钱は黒竜江省の出身で、東北の言葉は普通話(標準語)にとても近いのだと言っていました。言葉が通じず、暗くなると武館に誰もいなくなり、食事にも困っていた私を、小钱は近くの食堂へ連れて行ってくれるようになり、それから少しずつ、身振り手振りと筆談で中国語を教えてくれるようになりました。特に力を入れてくれたのが、拼音(ピンイン)と四声の発音でした。
志強武館の関係者からは一人で出歩かないよう言われていたのですが、さすがにどこにも出かけないと神経が参ってしまいそうでしたし、小钱に中国語を教わっているときに「せっかく北京にいるのに、どこにも出かけないのはもったいないよね」という話にもなっていました。ちょうど授業のない日に小钱が誘ってくれたので、北京市内へ出かけることになりました。
「你想去哪玩儿?」(どこに遊びに行きたいの?)
と聞かれた私は、すぐに
「我想去书店!」(本屋さんに行きたい!)
と答えました。
市内バスに乗って、北京で有名なショッピング街の王府井へ向かうと、車窓からは、毎日武館で太極拳の練習ばかりしている日々とはまるで違う華やかな世界が広がっていました。急に心が弾みだした私は、嬉しくて嬉しくて、踊りだしそうになりました。
王府井の入り口でバスを降りて、大通りをまっすぐ歩き、目的の新華書店へたどり着くと、たくさんの中国語の本が並んでいました。
(本屋さんに来たのはいいけど、どの本を開いてもきっと読めないだろうな)
と思っていると、小钱が「まずは児童書コーナーを見てみよう」と勧めてくれました。
しかし、児童書の棚にある子供向けの『水滸伝』や『西遊記』などの本を開いて眺めてみても、当時の私には、ただ挿絵があるだけの難しい漢文書にしか見えません。そこで奥にある絵本のコーナーへ向かい、『100万回生きたねこ』という絵本を見つけました。猫のお話なら少しは文章を読めるかな、と思った私は、小钱に中国語の解説をしてもらいながら、一緒に読んでもらうことにしました。
かなり有名な絵本だというのは後から知ったのですが、私はこのとき初めて読んだので、お話のラストで感極まってしまい、人目もはばからず、グスグスと泣いてしまいました。隣で一生懸命に解説をしてくれていた小钱は、急に泣きだした私に驚いて「泣かないで、泣かないで、泣くと身体に悪い!」と言って、慌てて私を本屋から連れ出してしまいました。
私はもう少し絵本の余韻に浸っていたかったのですが、責任感の強い小钱に急き立てられ、王府井からまたバスに乗って、今度は天安門広場の西側にある人民大会堂へ向かいました。

周囲を散策している途中、屋台で糖葫蘆(タンフールゥ)という山査子(サンザシ)版りんご飴のような中国伝統のお菓子と、国旗の小旗を買ってもらいました。初めて食べる甘酸っぱい糖葫蘆の物珍しさと、いかにも観光客っぽい旗と一緒に記念写真を撮ったことで、私はすっかり気分が良くなりました。
ケロっと笑っている私を見た小钱は、安心したのか、任務終了とばかりに「さぁ、外は空気が悪いから長くいると身体に良くない、早く武館に帰って休んだほうがいい」と言って、まだ午後2時だというのに、バスに乗って武館へ戻ることになりました。
つかの間の気分転換を過ごして旅館へ戻った私は、荷物を置いて着替えを済ませ、のんびり休憩しようとベッドに横になりました。すると唐突に、「ガンガンガンガン! ホン シャン(横山)! ザイマ?(いるの?)」という、けたたましいノック音と呼び声が聞こえてきました。
驚いてベッドから飛び起き、慌ててジャージに着替え直してドアを開けると、そこには武館の事務員の甄国青(ジェン グォチン)さんが目を輝かせながら立っていました。私が阿甄(アージェン)と呼んでいた、少し日本語の話せる女性です。阿甄は「陳項老師が武館に来たよ!」と言って、私に急いで老師に会うように促し、武館へ戻って行きました。
なにごとかと思って急いで武館へ行くと、館内には西日が差し込んでいるだけで、誰もいませんでした。
(あれ、もしかして私、また聞き間違えたのかなぁ?)と自信がなくなり、キョロキョロしていると、外から話し声が聞こえてきました。その声が近づいてくるとドアが開き、まるで熊のような歩き方をしている強面の男性と、そのお弟子さんのような男性2人が、武館へ入ってきました。
それが、混元太極拳第二代継承者、陳項(チェン シィアン)老師でした。
初出 2010年4月
つづく