REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

アパート探し

北京・志強武館

2004年12月中旬、短期留学の90日ビザの期限が迫っていましたが、当時は簡単な手続きで30日まで延長可能だったので、私はもう1か月、滞在期間を延ばすことにしました。

その後はビザの再取得が必要だったので、一旦日本に帰国することになっていたのですが、長期留学に向けて、私は小钱に頼んで、アパートを一緒に探してもらうことにしました。場所は、自分で決めました。志強武館のある国貿と、陳項老師のお住まいのある高碑店の、その間に住みたい。それだけを伝えました。

しかし、日本と同じで良い物件を見つけるのは結構大変で、治安の良さそうなマンションは家賃が高いし、安いアパートは治安が心配、それから治安以外にも、6階以下の建物にはほとんどエレベーターが設置されていないことが、このアパート探しを困難にしました。

その時はまだ筋力も体力もなかったので、小钱が良さそうな部屋を見つけてくれても、それが6階建ての最上階だったりすると、「疲れた日は辛いなぁ、風邪でも引いたりしたら部屋に戻るの無理だよぅ」と弱気になり、何だかんだ言って断ってしまうので、小钱は頭を抱え、私も負けずに頭を抱え、毎日毎日、朝から晩まで部屋探しに明け暮れました。

その頃はもう、『北京・志強武館』では毎日授業を受けていませんでした。なぜかというと、後から分かったのですが、武館の方々は私が長期留学だと思っていなかったらしいのです。確かに日本にいる時に、日本の太極拳の先生から武館宛に「長期的に留学して太極拳を学ばせてください」という内容の紹介文を送ってもらっていたはずなのですが、「女の子がそんなに長く居られるわけがないだろう……」という常識が日本側の要望を打ち消してしまったらしく、3か月が過ぎた頃には「横山はまだ居るのか? 親は心配しないのか? どうして帰らないんだ?」と言われるようになりました。その度に「いいえ、私は長期で太極拳を学ぶ計画です」と説明はしていたのですが、明らかに「ポカン」という表情をされ、その反応に出くわすたびに、「意を決して北京まで来たのに、私の志は武館側に伝わっていなかったのか」と落ち込んでいました。

何はともあれ自由な時間ができた私は、気を取り直して「アパート探し」という大義名分を自分に与え、毎朝近所の屋台で大好きな茴香(ウイキョウ)包子と油条(揚げパン)をお腹一杯食べ、甘くて薄い豆乳をガブガブ飲み、バスの路線図を片手に小钱と一緒に、北京市内を走り回りました。

北京の朝食のウイキョウ包子と油条
北京のポピュラーな朝食「ウイキョウ包子と油条」

その少し前、小钱と安い靴屋へ行った時のことです。私の足は22.5センチで、中国では小さすぎて、なかなかサイズがありません。小钱は店の床に座り込んで、山積みになった靴の中から私のサイズを探してくれていました。見つからないので、大きいサイズの靴を手に持ったまま店員の女性に「有35号吗?」(35号はありますか?)と聞くと、返ってきたのは「是你拿的」(あなたが持っているのがそうよ)。小钱は真顔で私を見て、「她说的挺好」(彼女、いいこと言うね)と言いました。

私は、小钱の真顔と見事な落ちに、心の底から中国語の魅力に取り憑かれました。そして、どうやってもこの流れを日本語にすることができず、まるまる中国語で覚えないと、この面白さは残せないと思いました。

北京を訪れてからずっと、太極拳と按摩を学んでいる人にしか接したことがなかったので、アパート探しで出会った市内の人々とのやりとりは、まさにカルチャーショックでした。

物件の仲介業者の人は中国の東北出身で、黒いスーツに身を包んだ、よく体を揺すり地団太を踏む人でした(最初は怖かったけど親切で良い人だった)。

アパートの大家さんたちは、イスラム教徒や、大富豪、学校の先生や、一般の主婦、それから見事な北京訛りの老北京人(日本で言う生粋の江戸っ子のような人)など、色々な人たちがいました。

イスラム教徒の大家さんの部屋を内見していたとき、「部屋を貸すのに特にルールはないんだけど、豚肉は食べないでね」と言われたのも驚いたし、学校の先生だという大家さんに、隣にいる女性を「她是我的爱人」(彼女は私の愛人です)と紹介されたのもドギマギしました。後から知りましたが、中国語で「愛人」とは妻の丁寧な呼び方だったのです。

とはいえ、ほとんどの言葉は聞き取れなかったので、大半は仲介業者の人と小钱が、大家さんと話しているのをただ隣で見ているだけでした。

それでも、はっきりと伝わってきたのは、中国人の人情でした。

その話し方や表情や身振りは温かく、多様性に富んでいて、その場にいると楽しい気持ちになりました。

その光景を見て、ふと陳項老師や仲間が公園で呟いていた「皮毛都学不到」という言葉を思い出しました。

「もし外国人が中国を訪れ、太極拳の動作だけを学び、中国人とはなにかということを学ばなかったのなら、太極拳の皮や毛ほども学ぶことはできないだろう」

その言葉に対して私は心の中で反発していました。日本には素晴らしく解説された太極拳論の本がたくさんあって、日本で散々それらの本を読み漁って太極理論を頭に詰め込んできた、と思っていた私には、現代中国人の考え方や生活習慣を知ることが、そんなに太極拳学習に必要不可欠なことだとは、どうしても思えなかったのです。

しかし、実際に北京の街へ出て、古い歴史の面影を残す街並みや、様々な生活を送る中国の人々を見ていると、本には書かれていないものが、目の前の人たちの表情や言葉やつながりの中にあるように思えてきました。陳項老師が言った「中国人とはなにかということを学ぶ」という言葉を、私は初めて自分の経験として考え始めました。

その日は一日中歩き回って、足が棒のようになって、休憩がてら街角の古い建物のベンチに腰掛けて、小钱が買ってくれた肉餅(中国版おやき)を食べていると、斜めに差し込む夕日が建物の赤い柱をさらに赤く染めていきました。

その日本では見慣れない赤の色彩をぼんやり眺めていると、はじめて「ふっと」心が開いたような気がしました。そして「文化は人の心で受け継いでいく」という思いが浮かんできました。

「どれくらい中国に居られるかわからないけれど、どれくらい学べるかわからないけど、心と体と、自分全部で、今の中国を生きてみよう! 現代語に訳された太極拳の専門書からだけではなく、今を生きている中国人からたくさんのことを学べるはずだ!」

武館の授業から外れ、日本の生活からも遠く離れ、どうして自分がここにいるのか不思議な気持ちがしながらも、心の中で強くそう思いました。

初出 2010年6月

後日談

数日後、小钱の協力のおかげで、住居は無事に見つかりました。

その後も私は、日本人のいる寮には入らず、市街のアパートで暮らしました。市場で野菜を買い、病気になったら地元の病院に行き、中国の服を着て、方言を覚え、中国の友人たちと時間を過ごしました。現地の日本人とはほとんど交流せず(学習団以外の日本人には会ったことがないのですが)、時間の許す限り、中国の友人たちと一緒に過ごすようにしていました。

つづく