2004年9月22日、北京へ到着した2日目の朝。滞在中の賓館(ホテル)近くの食堂で朝食をすませた私は、いよいよ太極拳学習をスタートするために『北京・志強武館』(陳式心意混元太極拳の創始者である馮志強老師が創設した太極拳武館)へ向かいました。
志強武館は馮志強老師のお弟子さんが設立した按摩学校と同じ敷地内に建てられており、中にはたくさんの学生達が毎日中医学や按摩を学んでいました。
(この按摩学校は短期制で、地方から出稼ぎのために資格を取りに来ている学生が多く、とても気が合いました。滞在期間中は仲良くなった数人と一緒に太極拳を練習したり、按摩の実技授業を見学させてもらったりしました。小中高とたびたび不登校になり友達ができなかった私にとって、初めて同級生と楽しい日々を過ごせた幸せな場所となりました)
記念すべき北京太極拳留学の初日に私を指導してくださったのは、本業は鍼灸師でもあるという盧春(ろ しゅん)老師でした。
男性の老師だったのでご挨拶をするまでは緊張したのですが、立ち振る舞いや話し方がとても紳士的だったので少し安心しました。
しかし、私の安心は慣れない中国ではそう長く続かず、実際に太極拳の授業が始まってしまうと、30人くらいは練習できそうな広い武館の中に私と盧春老師の二人だけで、他に生徒がいません。
(えっ、なに? どういうこと? もしかして個人授業? えっ、聞いてない。みんなと一緒に見よう見まねで練習するくらいしかできるわけがない、中国語がわからない)
そう戸惑う私に向かって、盧春老師は次々と北京語で私に語りかけてきます。
北京男性の発音は巻き舌が強くただでさえこもった声質になりやすいのに、太極拳家ともなると更に声に厚みが増すので、当時の私のヒアリング能力では聞き取れないどころか言語ですらなく「ウォン ウォン ウォ~ン」という音声にしか認識できませんでした。何をお話しになってるのか、それはもう綺麗さっぱりチンプンカンプンだったのです。
訪中前に数百回も繰り返し聴いた中国語教材の音源とまったく違う北京語に、パニックになった私はオロオロすることしかできず、太極拳の指導を受けているというのに、何を言われても身動き一つ取れません。
まったく中国語を理解しない私を見た盧春老師は、「これは無理だ」と判断したのか、突然「イングリッシュ」と呟いたかと思うと、
「ストマック! リラ~ックス」
「レバー! ソフト ブレース」
と身体のあちこちを指差しながら、英単語で説明を始めました。
なんとなく内容はわかるようになったものの、それでは何かがとても台無しになってしまうとパニックながらも感じた私は、
「老师,我要学习……,汉语,请您用……,汉语」
(先生、私は中国語を学ばなければならないので、どうか中国語を使って話してください)
と、なんとか思い出した中国語でお願いをすると、盧春老師は直ぐに理解してくださり、その後はずっと中国語で話しかけてくださいました。
どうやら中国語を聞き取ることはできなくても、自分の意思を中国語で伝えることは可能なんだ、と確認できましたが、しかし私は授業を受ける目的で武館に来ているので、老師の言葉を聞き取れないことにはまったく学習になりません。
こうして、北京中心部にある広い太極拳武館の中で、優しい盧春老師と、ひたすら頭を下げながら「对不起(ごめんなさい)」「听不懂(聴いてもわかりません)」を連呼する私の、不穏でしかない太極拳学習が始まってしまったのです。
~後日談~
盧春老師には始めの7日間だけ陳式心意混元太極拳の二十四式を指導して頂いたのですが、結局7日間を通して中国語がわからなかったので、指導内容はほとんど理解できませんでした。ただ授業の最終日に、毎日何一つ中国語が聞き取れない苦しさと、申し訳なさと、海外で一人ぼっちという不安から疲労困憊になって授業中にポロポロと涙をこぼしてしまった私を見て、盧春老師は目を真っ赤にして一緒に泣いてくれました。
それからの残りの授業時間は太極拳の指導はやめて、私が常に首からぶら下げていたミニノートにたくさんの、生活する為に必要な中国語をイラスト入りで描いてくださいました。
今思い出しても、盧春老師は本当に優しかったです。
初出 2010年3月
つづく