旅立ちの日

成田発北京行きの飛行機から見える富士山

忘れもしない2004年9月20日午後3時、成田空港から北京空港へ向かう飛行機は予定より1時間遅れで飛び立ちました。

当時私はまだ28歳で、生まれて初めての単独出国、しかも中国、さらに太極拳を学ぶ長期留学となれば、本来なら不安で一杯のはずなのですが、私の胸はむしろ期待と希望で満ち溢れていました。

18歳で実家の宮崎から音楽の夢を抱いて上京し、無限の可能性を秘めているような果てしなく大きい東京の街で暮らして10年、理想と現実、挑戦、挫折、妥協、地方出身の若者の誰もが経験するであろう、目まぐるしい人生の第一試練を通過していた私は、今度はあの頃とはまた違った不思議な高揚感を抱いて中国大陸に飛び込みました。

「あの流れに繋がる方法を探すんだ」

その流れとは、派遣社員をしながら一人暮らしをしていた25歳の頃、心身共に衰弱して生活が脅かされていた限界の状況で、必死に自分を立て直そうとして実践していた自己調整法で感じられた「大きな流れと繋がっている、何も心配いらない」という感覚でした。

生まれ育った地域が宮崎県の山奥だったので、東京に住んでいても身体のどこかに自然のエネルギーを感じる能力が残っていたのかも知れません。

と、スタートは好調な滑り出しのようですが、肝心の準備や計画性が壊滅的でした。そもそもこの時の私は中国のことを太極拳の発祥地ですよね!くらいの知識しか持ち合わせておらず、トイレにドアがないことも知らず(都市部にはあります)、ドアがあっても鍵が付いていないことも知らず(都市部では鍵は付いてます)、鍵があっても閉めないことも知らず(人によります、防犯上閉めない方が安全だという理由もあります)本当に何も知らないのと等しい状態でのん気に飛行機で運ばれていました。

「まぁ、もう行くと決めたんだから、それは何があったって行くんだから、必死に下調べをして問題が出てきたとしても、どうせ決心は変わらないのだから」という、直感型思考の悪い癖で、事前の情報収集を最低限しか済ませていない本当に無知なまま、これから訪れる未知の感動に心を弾ませていました。

とは言え、私はそんなに裕福な家庭の出身ではなく、むしろ母子家庭で明日の生活費もままならないような子供時代を過ごしたので、単純に楽観的な性格だったわけではなく、ただ特にいる場所もない、帰る場所もない、あるとすれば夢をもって生きるという人生観くらいしかない、ただの根無し草のような人間でした。

北京行の前に、かろうじて準備していたものはこの3つだけ。

  1. 出発直前までに必死に頭に詰め込んだスーパーイージー中国語
  2. 携帯用の日中辞書
  3. 首から提げた自作のミニノート(ありったけの必要そうな中国語と、思いつく限りの緊急連絡先を記入)
横山春光が中国留学初期に使っていたノート
当時のミニノート

あとは着替えやら、中国の老師方へのお土産やら、日本の太極拳の先生に頂いた鮎の真空パック(非常食)やらです。

(何だかもうちょっとちゃんと準備するべきだったかなぁ)

飛行機が一定の高度を維持して機内の緊張が緩んでくると、さすがに薄っすらと反省のようなものが脳裏をよぎりましたが、もう引き返すこともできないので行儀よくシートに座って、客室乗務員が運んできてくれる食事を順番に食べたりアップルジュースを飲んだりしながら、機内での4時間を過ごしました。

~後日談~
私は極度の高所恐怖症で、飛行機に乗るのは離陸した瞬間に発狂するんじゃないかと思うくらい苦手なのですが、この日はまったく恐怖を感じていませんでした。

初出 2009年2月

つづく

この記事を書いた人

日本中国伝統功夫研究会の会長。八卦掌と太極拳と華佗五禽戯の講師。中国武術段位5段/HSK6級/中国留学歴6年(北京市・河南省)

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