2004年12月中旬、短期留学の90日ビザの期限が迫っていましたが、当時は簡単な手続きで30日まで延長可能だったので、私はもう1か月滞在期間を延ばすことにしました。
その後はビザの再取得が必要だったので、一旦日本に帰国することになっていたのですが、長期留学に向けて滞在費用を節約するために、私は按摩学校の友人たちに頼んで、安いアパートを一緒に探してもらうことにしました。
しかし、日本と同じで良い物件を見つけるのは結構大変で、治安の良さそうなマンションは家賃が高いし、安いアパートは治安が心配、それから治安以外にも、6階以下の建物には殆どエレベーターが設置されていないことがこのアパート探しを困難にしました。
留学3年目には5階建てのアパートでも一気に駆け上がれるほど体力がついていたのですが、その時はまだ筋力も体力もなかったので、友人が良さそうな部屋を見つけてくれても、それが6階建ての最上階だったりすると、「疲れた日は辛いなぁ、風邪でも引いたりしたら部屋に戻るの無理だよぅ」と弱気になり、何だかんだ言って断ってしまうので、友人は頭を抱え、私も負けずに頭を抱え、毎日毎日朝から晩まで部屋探しに明け暮れました。
その頃はもう、『北京・志強武館』では毎日授業を受けていませんでした。何故かというと後から分かったのですが、武館の方々は私が長期留学だと思っていなかったらしいのです。確かに日本にいる時に、日本の太極拳の先生から武館宛に「長期的に留学して太極拳を学ばせてください」という内容の紹介文を送ってもらっていた筈なのですが、「女の子がそんなに長く居られるわけがないだろう……」という常識が日本側の要望を打ち消してしまったらしく、3か月が過ぎた頃には「横山はまだ居るのか? 親は心配しないのか? どうして帰らないんだ?」と言われるようになりました。その度に「いいえ、私は長期で太極拳を学ぶ計画です」と説明はしていたのですが、明らかに「ポカン」という表情をされ、その反応に出くわすたびに、「意を決して北京まで来たのに、私の志は武館側に伝わっていなかったのか」と落ち込んでいました。
何はともあれ自由な時間ができた私は、気を取り直して「アパート探し」という大義名分を自分に与え、毎朝近所の屋台で大好きな茴香(ウイキョウ)包子と油条(揚げパン)をお腹一杯食べ、甘くて薄い豆乳をガブガブ飲み、バスの路線図を片手に友人と一緒に北京市内を走り回りました。
北京を訪れてからずっと、太極拳と按摩を学んでいる人にしか接したことがなかったので、アパート探しで出会った市内の人々とのやりとりは、正にカルチャーショックでした。
物件の仲介業者の人は中国の東北出身で、黒いスーツに身を包んだ、よく体を揺すり地団太を踏む人でした(最初は怖かったけど親切で良い人だった)
アパートの大家さん達は、イスラム教徒や、大富豪、学校の先生や、一般の主婦、それから見事な北京訛りの老北京人(日本で言う生粋の江戸っ子のような人)など、色々な人達がいました。
イスラム教徒の大家さんの部屋を内見していたとき、「部屋を貸すのに特にルールはないんだけど、豚肉は食べないでね」と言われたのも驚いたし、学校の先生だという大家さんに、隣にいる女性を「她是我的爱人」(彼女は私の愛人です)と紹介されたのもドギマギしました。後から知りましたが、中国語で「愛人」とは妻の丁寧な呼び方だったのです。
とはいえ、ほとんどの言葉は聞き取れなかったので、大半は仲介業者の人と友人が、大家さんと話しているのをただ隣で見ているだけでした。
それでも、はっきりと伝わってきたのは、中国人の人情でした。
その話し方や表情や身振りは温かく、多様性に富んでいて、その場にいると楽しい気持ちになりました。
その光景を見て、ふと陳項老師や仲間が公園で呟いていた「皮毛都学不到」という言葉を思い出しました。
「もし外国人が中国を訪れ、太極拳の型だけを学び、中国人とはなにかということを学ばなかったのなら、太極拳の皮や毛ほども学ぶことはできないだろう」(「皮毛都学不到」を参照)
その言葉に対して私は心の中で反発していました。日本には素晴らしく解説された太極拳論の本がたくさんあって、日本で散々それらの本を読み漁って太極理論を頭に詰め込んできた、と(浅はかにも)思っていた私には、現代中国人の考え方や生活習慣を知ることが、そんなに太極拳学習に必要不可欠なことだとは、どうしても思えなかったのです。
しかし、実際に北京の街へ出て、古い歴史の面影を残す街並みや、様々な生活を送る中国の人々を見ていると、改めて自分がとても小さく思えてきました。カチカチの頭で、自分の国がどういう国かもちゃんと理解していないくせに、勝手な思い込みで深遠な太極拳の真髄を勝手に解釈しているような気がしてきたのです。
その日は一日中歩き廻って、足が棒のようになって、休憩がてら街角の古い建物のベンチに腰掛けて友人が買ってくれた肉餅(中国版おやき)を食べていると、斜めに差し込む夕日が建物の赤い柱をさらに赤く染めていきました。
その日本では見慣れない赤の色彩をぼんやり眺めていると、はじめて「ふっと」心が開いたような気がしました。そして「文化は人の心で受け継いでいく」という思いが浮かんできました。
「どれくらい中国に居られるかわからないけれど、どれくらい学べるかわからないけど、心と体と、自分全部で、今の中国を生きてみよう! 現代語に訳された太極拳の専門書からだけではなく、今を生きている中国人からたくさんのことを学べるはずだ!」
武館の授業から外れ、日本の生活からも遠く離れ、どうして自分がここにいるのか不思議な気持ちがしながらも、心の中で強くそう思いました。
~後日談~
数日後、友人の協力のおかげで住居は無事に見つかりました。そして、この時の思いから私は6年半の留学生活の中で、一度も日本人のいる寮には入らず、現地の日本人とも交流しませんでした。中国人と同じように市街のアパートに住み、市場で野菜を買い、病気になったら地元の病院に行き、中国の服を着て、方言を覚え、できるだけ今の中国の息づかいを感じられるように生活しました。外国から来た太極拳留学生が、プライベートで一般の中国人と積極的に交流する様子を見たことは殆どありませんでしたが(言葉の問題もあると思います)、私は時間の許す限り中国の友人達と一緒に過ごすようにしました。
初出 2010年6月
つづく