2004年12月末、アパート探しに明け暮れて2週間ほど経ったある日、『北京・志強武館』付近の食堂で一人で夕食を摂っていると、居合わせた按摩学校の生徒に「今日、武館の事務室で横山が最近武館に来ないって噂になってたよ」と声を掛けられました。
これは大変!と思い、翌日は朝早くから武館へ行き、事務職員の方に「来月ビザの関係で一時帰国しますが、直ぐに北京に戻ってきて太極拳の学習を続けたいので、引き続き陳項老師にご指導を賜りたく思っています」という内容を伝えました。伝えるといっても片言の中国語と筆談でしたが、どうやらうまく伝わったようでした。
毎週土曜日の朝に公園で行われていた陳項(チェン シィアン)老師のプライベートな練習会には参加していたのですが、武館での授業は言葉の問題でスケジュールの把握できていなかったことと、アパート探しで市内へ出ていたせいか、何回か欠課してしまっていたようなのです。
もうアパートの方もほぼ決まりそうで、精神的にも落ち着いてきたので、一時帰国までの残りの時間は武館に通い太極拳の学習に専念することにしました。
久しぶりに武館へ授業を受けに行くと、いつものように数人の中国人の生徒の方達と一緒に陳項老師が入口から入ってこられました。
「一緒に授業を受けてもいい」ということだったので、私は端っこで大人しく皆さんの授業に参加することにしました。
その日は地方から来られたというその生徒の方々の最後の授業だったので、たくさんの質問が出ていました。
方言が聞き取れない私は、何をお話しているのかよくわからなかったのですが、なにやら難しそうな内容で、陳項老師の表情や口調も厳しかったので、少し緊張しました。
しばらくすると生徒さん達はホテルのチェックアウトの時間があるというので、授業は早めに終わることになり、残りの時間は私が陳項老師に練習を見ていただけることになりました。
賑やかだった空間が急に「シーン」としてしまったので、なんだか申し訳ない気持ちになった私は「何か質問をしなければ」という強迫観念にかられ、陳項老師に向かってなるべく専門的な質問をしようと思い口を開きました。
「老师、我想问一下……」
(老師、質問があるのですが……)
ところが、あれこれ考えても結局一言も出てきませんでした。
モゴモゴしていると、陳項老師は突然、武館の壁に掛けてある継承者の写真や中医学の図解を指差すと、
「不要相信他们! 不要相信那些书!」
(先人達を信じるな! 古い書を信じるな!)
と、私に向かって厳しい口調でおっしゃったのです。
日頃から陳項老師は先人を敬い、武徳や礼節を非常に重んじ、時間があれば古文書を読み、常に学びの道を歩み続けている老師だったので、私は自分が聞き間違ったのかと思い茫然としました。
困惑している私を見ると、陳項老師はまたいつもの穏やかな表情に戻り、ゆっくりと一言ずつ丁寧に私が理解できるように説明してくださいました。
「いいかい、先人達は実に偉大なものを発見し私達に遺してくれた。しかし彼らはもう死んでいるんだ、古文書は大昔に書かれたものだ。しかし私達は今を生きている。横山、お前も生きている、私も生きている、いま生きている物を見るんだ」
私は中国語が分からないときにいつもそうしているように、全身全霊を集中させて陳項老師が伝えようとしてくださっていることを理解しようとしましたが、その時はただただ圧倒されるだけで、何一つ理解することはできませんでした。
それでも、なんとなく感じたのは「理論にとらわれるな、知ったかぶりをするな」という意味ではないか?ということでした。
~後日談~
陳式太極拳代十八代継承者、また陳式心意混元太極拳の創始者でもある馮志強老師が、意を得た弟子と認めた陳項老師が私に伝えてくださったその言葉は、その後ずっと私の心から消えることはなく、何度も立ち返ることのできる大切な言葉となりました。
初出 2010年7月
つづく