2005年5月、中国大陸の季節の変化は強烈で、日本のように緩やかに四季の変化を楽しむ余裕はありませんでした。
寒かった冬が過ぎ去り、公園には春の陽気が訪れ、桃源郷のように見事に剪定された桃の木が一斉に花を咲かせたと思いきや、あっという間に散ってしまい、北京市に差し込む正午の太陽は既に初夏の熱気を帯びていました。
中国大陸の季節の変わり目はダイナミックで、気温や植物の変化だけではなく、天と地が「ゴゴゴゴゴッ」と音を立てて動いているような、巨大な潜在的流動を感じるのです。
おだやかな夏への移行を予想していた私のペースは狂っていまい、突然忙しくなった武館の動向にも心を掻き乱されていました。
そして、冬の間の集中力は消え、私は地に足が着かなくなっていました。
思うように上達しない中国語会話、そのせいで全く進展しない混元太極拳の学習。さらに毎日毎日全神経を集中して中国語を理解しようと努力しなければならないせいで精神的にクタクタになり、焦りと疲労が溜まっていきました。
ある時、志強武館で陳項老師に混元太極拳の新しい型を指導を受けていたとき、なかなか憶えられないことに焦った私は、いつも通学中のバスの中で無意識に耳にしていた現地のスラングを意味も分からず連発していました。
そのスラングは中国において最も言ってはいけない(脏话と呼ぶ)言葉で、英語に例えると「F… y…」(書けません)という意味だったのですが、それは後から知ったことで、その時はただなんとなく普段の生活で見かけた情景から「焦ったり失敗したときに使う言葉」だと潜在意識に学習して口をついてしまったのです。
女性が使うのなんてもってのほかであり、しかも神聖な武館内で授業中にスラングを老師に向かって発したのは、恐らく私が最初で最後であろうという程にとんでもない状況であり、さらに私はそのスラングを連発してしまっていたのでした(今思い出しても恥ずかしい)
陳項老師は私のスラングを聞いた瞬間、顔を真っ赤にして走って来られて「横山!不能这么说!」(横山!そんな言葉を使ってはいけない!)と慌てて私を注意しました。しかし、私は陳項老師の中国語の意味が分からずキョトンとするばかりで、とにかく最悪な状況でした。
どんなにお行儀良くしていようと思っても、どんなに中国人の真似をしようと思っても、やはり私は从頭到尾(徹頭徹尾)外国人なのです。中国の民間の日常生活の中では、きれいな言葉も、そうでない言葉も混在しています。その区別もつかないまま、私の頭は無意識に感じたものを無作為にインプットしてしまうのです。
苦労して身につけた中国語に自信をなくした私は、中国語学習の本の中に逃げ込んで外部からの言葉を遮断するようにしました。
教科書の言葉なら安全だろうと思い、必要な用事は紙に書いて筆談で伝えることにしました。しかし、一晩かけて書き上げた中国語の文章も、相手に渡すとただ一瞥されて「何書いてるか分からないよ、言葉で説明して」と言われ、仕方ないので拙い中国語で説明しようとしても自信をなくしていたせいで前より一層話せなくなり、相手に困惑され、用事も伝えられず、日々自分の状況がどうなっているのか把握できなくなりました。
そして、唯一励みであった混元太極拳の授業も、授業スケジュールが分からなくなってしまいました。
もう既に、混元太極拳四十八式、混元太極剣、混元太極刀の型は習い終わっていたので、複雑な中国語が話せるようにならない私に、老師方もそれ以上の内容を指導することはできなかっただろうと思います。
それでも私は他にどこにも行く所がないので武館に行きます、行けば練習します、たまに老師がいらっしゃれば混元太極拳の型を教わります、教われば授業料が発生します。しかし授業スケジュールを把握できなくなったその頃、私は学費が一体どれくらいかかっているのか、誰に聞いても分からなくなりました。
毎月月末にその月の授業料を払うのですが、とうとう馮志強老師の三女である秀茜老師に、
「你说的算」
(授業料を幾ら払うかは、あなたの自由でいい」と言われてしまいました。
「幾らでもいい」と言われても、幾ら払えばいいのかわかりません。考えても考えても、わかりません。
後から知ったことですが、当時の中国伝統武術界では、長期間在学している学生や、既に多くの学費を支払った学生は学費が大幅に減額されることがあるのです。
しかし、当時の中国の常識や風習がわからない私には、どうしたら良いのか理解できない苦しさしかありませんでした。
「今月の授業料がいくらなのかわからない」と頭を抱える私、「幾らでもいい」と言い続ける武館側、双方分かり合えぬまま、私は仕方なく手帳を見直して、そこに書き留めてあった不完全な記録から授業時間を総計することにしました。
手帳の中の記録は、ある日は個人授業、ある日はグループ授業、ある日は途中から個人授業、そしてある日は個人授業の予定が飛び入り参加が入ってグループ授業。予定の時間通りに始まったり終わったりすることも稀な状況でした。
もう何が何だか分からないので、無理やり数字だけ出して、恐る恐る事務所に授業料を払いに行くと、ちょうど秀茜老師がいらっしゃったので「自分の手帳の記録を頼りに、授業時間を計算して持ってきました」と身振り手振りで伝えながら学費の入った封筒を渡しました。
すると、誰もいない部屋で秀茜老師は私を激しく叱責しました。
「なぜ私にこんなものを渡す? 私は金銭のために太極拳を教えている訳ではない。自分をそういう風に思っているならもう教えない」
という内容のことを私に強くおっしゃられました。
驚いて「对不起」と謝罪の言葉しか言えず、学費の入った封筒も受け取ってもらえなかった私は、なす術もなく自宅に帰ると力尽きてその日から引きこもってしまいました。
その間、思い切って自宅からさほど離れていない陳項老師のご自宅に手紙を持って相談に行ったこともありましたが、結果は同じようなものでした。
私は約8か月間に及ぶ「北京・志強武館」で過ごした日々について何日も考えました。
今までのように陳項老師や秀茜老師に混元太極拳を学びたいと何度も思いましたが、北京に来たばかりの頃とは状況が変化してしまったような気もしました。それから、北京にきてからずーっと頭にかかっていた靄を晴らしたいとも思いました。毎日必死に考えました。
自分が中国語を喋れないまま北京へ来てしまったことや、身の安全に自己責任が取れないこと。それから北京市内にマンションを借りて週に数回武館へ通う学習方法。自分の立場、武館の立場、老師方の立場、そして混元太極拳のこと。
その頃の私には、その行為自体が、つまり深く考えることが必要だったのかもしれません。
私はただ単に映画の世界のようなものを求めて中国へ来たのだろうか?一体何を求めていたのだろうか?
この問いは、それからずっと後に、師匠となる八卦掌第五代継承者である麻林城老師に出会えるまで続きました。
そして、そのとき私の出した答えは、太極拳の発祥の地である河南省へ渡り、全ての太極拳のルーツとなった陳式太極拳を学ぶことだったのです。
初出 2010年9月
つづく