「旅立ちの日」はどんな時代だったのか?
掘り返された北京
2004年の北京は、街ごと工事現場でした。
三年前に2008年のオリンピック開催が決まり、同じ年に中国がWTOに加盟。五輪へ向けた都市改造も加速し、古い路地が壊される一方で、高層ビルや巨大な建築物が次々に姿を現していました。経済は年に一割ほどの勢いで成長し、前年の秋には、中国初の有人宇宙船「神舟5号」の打ち上げにも成功しています。
改革開放から四半世紀、国じゅうが貧しさから抜け出そうと豊かさを求めて走っているような、荒っぽくて、景気のいい時代でした。
法律や制度が現実に追いつかず、そのぶん、何でもできた。当時の中国を知る人と話していると、そうした話を何度も耳にします。もちろん巨大な中国社会を一言で括れる話ではありませんが、変化の速さと、今とは違う時代の空気をよく表しているように思います。
そしてその北京は、前年の春、SARSが猛威を振るった都市でもありました。WHOが北京への不要不急の渡航延期勧告を解除したのは、2003年6月24日のことです。
さらに横山会長の出発から約六週間前、北京で行われたサッカー・アジアカップ決勝では、日本代表への激しいブーイングや、試合後の騒動が日本でも大きく報じられました。日本人観戦者への嫌がらせや、決勝後に日本大使館の車両が被害を受ける事件もありました。
これも少し乱暴にまとめるなら、当時、日本のニュースを通して見える中国は、景気がよくて、危なそうで、日本人を歓迎しているようには見えない国でした。
緊張を抱えた日中関係
当時の日中関係には、いくつもの懸案が重なっていました。
日本では小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって中国側が反発。2004年には尖閣諸島をめぐる問題や、東シナ海の資源開発をめぐる問題も表面化していました。
ただし、ここは「日中関係が冷え切っていた」とだけ書くと、少し実態を外します。
政治面で緊張や対立を抱える一方、2004年の日中間の人的往来は約400万人、貿易総額は1,600億ドルを超えています。政治には緊張がある。でも、人とモノはものすごい勢いで行き来している。これもまた、当時の日中関係でした。
中国では前年の2003年に胡錦濤が国家主席に就任していましたが、江沢民はなお中国共産党中央軍事委員会主席に留任していました。そして、江沢民がその職を退き、胡錦濤が後任となったのが2004年9月19日。 横山会長が北京へ向けて飛び立ったのは、実にその翌日でした。
2006年の安倍晋三首相の訪中、2008年の胡錦濤主席の訪日などによって、日中政治関係は改善の転機を迎えるのですが、それはまだまだ先のことです。
私自身、中国が好きで、中国には好意的な方だと思いますが、それでも今振り返って、あの時期に単身で中国へ渡り、長期滞在する決心ができただろうかと考えると、やはり躊躇したと思います。
横山会長によれば、当時、男性の先輩から「自分でも一人で中国へ行くのは怖い」と言われたそうです。
キーワードは「武縁」
もし横山会長が、当時の日中関係を調べ尽くしていたら、そして、身体の弱かった横山会長が、当時の北京の大気汚染の深刻さを知っていたら、この中国武術留学は実現しただろうか、と思うことがあります。
こうした背景をほとんど知らないまま、当時の横山会長は、期待と希望に胸を膨らませて中国へ飛び込んでいった。そして「たまたま」この時代には、文革を生き抜いた伝統武術家がまだ存命中でした。
ここで私はどうしても「武縁」という言葉を思わずにはいられません。
留学中には、まるで中国武術の神様に呼び寄せられたのではないか――そう思いたくなるほど、「この時、この場所にいなければ起こらなかった」と思える出会いが次々とつながっていきます。
「武縁」などというと、何やら都合のいい言葉に聞こえるかもしれませんが、横山会長の「留学記」は、一人の女性の奮闘記であると同時に、武術を通して一つの縁が次の縁を呼び、その縁がまた新しい師や武術へとつながっていく記録でもあります。
それは一人の女性の「カンフードリーム」と言ってもいいでしょう。
では、なぜ横山会長は、そんな体験をすることになったのか。
その先にどんな出会いと試練が待っていたのか、少しずつ読み解いていきたいと思います。
