2004年11月中旬、秀茜老師に「1か月後にみんなを集めて混元太極剣の試験を行う」と言われて1か月が経ったある日、武館に隣接する事務所から出てこられた秀茜老師は、練習中の私を見つけると「明日の午後5時に授業が終わった後、太極剣の試験を行うから準備しておくように」と簡潔におっしゃって帰って行かれました。
それを聞いた私は(い、い、いよいよ試験の日が来てしまった)と直ちに緊張しましたが、一方で(そういえば、太極剣の試験って具体的に何を試験されるんだっけ?」と本質的な意図がよくわかっていないまま、翌日の試験のために最後の復習に取り掛かりました。
具体的な試験内容は伝えられていなかったのですが(聞いていても中国語が理解できていなかったのかもしれません)それまでの1か月、私は秀茜老師に授業中何度も指導を受けたことを心において練習をしていました。
それは、「剣は拳ではない」というものでした。
「もっと緩急をつけて! 剣はほかの何でもない、刃物なのよ! あなたの剣さばきを見ていると眠たくなるわ。そんな動きならいっそ練習しないほうがマシ」というものでしたが、当時の私は精神的にも体力的にもまだまだ脆弱で、動作が複雑で型がとても多い混元太極剣の套路を最初から最後まで通して練習するだけでも、かなり疲れていました。
それでも北京まで来てしまっているので逃げ出す訳にもいかず、毎日頑張って繰り返し練習を重ねていると、不思議と練習中に身体が自由になる瞬間を覚えるようになりました。
それはランナーズ・ハイのように強烈な刺激の後に訪れるものではなく、何気ない円の動きを行った時に、ふっと「私は自由だ」と気がつくような自然な感覚でした。
それだけ切り取るといい感じの練習ができているように聞こえますが、実際には別の授業で陳項老師に繰り返し「練習によって生じる感覚を追いかけてはいけない」と諭され続けていたので、私はその「自由な感覚」に頼ることもできず、素直に秀茜老師に指導されたことを実現するために練習する他ありませんでした。
自分なりに考えた、上半身をリラックスさせるための脚力強化と、剣の勁(内面の流れ)が途切れないように注意して動作を行うこと、1か月で取り組めたことはそれくらいでした。
翌日、いよいよ試験の時間が近づいてくると、武館には数日前に買い物に連れて行ってくれた小王(シャオ ワン、※『冬物を買いに』を参照)をはじめ、武館の敷地内にある按摩学校の生徒たちが集まって来ました。中には馮志強老師のご令孫まで訪れていて、「うわぁ、この状況ではそうとう緊張するなぁ、練習通り動ける自信がまったくない」と不安になったのですが、実際に秀茜老師が武館に入ってこられ何の前置きもなく試験が始まると、その流れが自然だったせいか私はまったく緊張しませんでした。
始まりの動作である預備式から仙人指路、葉底蔵花、丹凰朝暘と型を間違えないように丁寧に動きながら、1か月間一生懸命練習したことを思い出して、上達していようがしていまいが、膝を傷めたり筋挫傷にならないギリギリまでは練習したから、これ以上でこれ以下でもないや、と思いました。
混元太極剣の円運動のせいなのか、やっと試験が終了したことで安心したのか、その両方なのかはわかりませんでしたが、清々しい気分で四十八式(一式がとても長いので実質倍以上の動作がある)の套路を終えると、秀茜老師は間髪を入れず大きな拍手をしてくださいました。
「もう一回通したら今の本当の実力が出せたわね!でもこれで十分、これからもこの調子で頑張って精進しなさい!」と言って肩を組んで激励してくださり、その場で見ていた生徒たちに「横山(ホン シャン)は1か月でここまでやったのよ!」と言って、意気揚々と帰って行かれました。
北京へ渡って初めて、太極の門へ向かう長い長い階段を一段だけ上がれたような気がした私は(いやこれは本当に気のせいでしたが)「色々大変だったけど、やっぱり来て良かったなぁ」と嬉しくなり、その日だけは明るい気持ちで、一人ぼっちの食堂での夕食も楽しく食べることができました。
私が宿泊していた旅館近くの食堂にはオッドアイの白猫がよく姿を現していました。中国語で猫はマオ、猫ちゃんは猫咪マオ ミー、子猫の場合は小猫儿シャオ マオと、カタカナで発音しても十分に通じる音なので、片言中国語の私が呼びかけてもいつもこちらを向いてくれました。とても静かで優しい猫ちゃんで、私が辛いときに愚痴や弱音を吐いたり、憶えたての新しい中国語を話しかけると、じっと聞き耳を立てて逃げないで側にいてくれたので、まだ慣れない外国で毎日心細かった私は随分慰められました。
初出 2010年6月
つづく