2005年10月、河南省鄭州市にある『陳家溝太極拳館』に通い始めて3か月が経った頃、私は陳式太極拳「老架一路」の套路(型)をなんとか習得し、教練と学生たちと共に授業の練習メニューである「老架一路・連続2回通し」(所要時間30分)を行える体力が身についてきました。
とは言っても、まだまだ周りの人達と合わせて動き、最後まで倒れずに立っているだけで精一杯の状態でした。
重心を右左前後に移動しながら、両手を決まった位置に運ぶだけで、頭の中は「アシガイタイ、アシガイタイ、アシガイタイヨー」という感覚しかありませんでした。
授業は一回2時間あります。まず始めに30分かけて基本功を含めた準備運動を行い、その後は両足を踏ん張って行う四種の纏絲勁(てんしけい・円運動)を30分練ります。この時点で私の両足の筋肉は限界に達し、まるで生まれたての子鹿のようにプルプルと震えだすのですが、誰もそんなことにことに目もくれません。乳酸が解消されるはずもない短い休憩の後、老架一路(74式)を休憩なしで2回通して行うのですが、これは計148の型を30分かけて連続で行うというもので、一言で表すと「太腿筋地獄」です。
毎日、上午班(朝)、下午班(昼)、晩上班(夜)と計6時間も授業に通っているため、筋肉痛が治る暇もなく、常に筋肉痛の状態でした。
そんなに無理してまで授業に通わなくても、適度に休めば良いのですが、休んでしまうとまた以前学んでいた混元太極拳の心地良い練習方法とのギャップを思い出してモヤモヤしそうだったので、もう何も考えまいと、とにかく体力の続く限り陳家溝太極拳館に通い詰めました。
そうしている内に、少しずつ今までとは別の感覚が生まれてくるのを感じました。
「一定のリズムを保ち、ただ一つのことに皆で打ち込む」という集中力です。
北京でも日本でも、ほとんど一人での自主練習か、たまに先生の直接指導を受けるという練習方法だったので、仲間と言葉を交わさず共に練習する機会が、それまでなかったのです。
無言で動作を繰り返す時間は心が止まったようになり、何式太極拳なのか、ファンソンなのか、丹田なのか、気なのか、あるいは正しいか間違っているかといったことは何も考えず、ただひたすら皆と体を動かしながら、唯一の反応の筋肉痛が発する無言の悲鳴だけを聞きながら太極拳を練り続けました。
「自分は虚弱体質だ」という後ろ向きな言い訳が、「なんとか克服してみせる!」という前向きなやる気へと変わっていきました。
休憩時間は相変わらず地元学生の方言が聞き取れないので、一人寂しくストレッチなどをしていましが、たまに顔を合わせる「表演隊」の少年たち(若い人は標準語を話せます)が正しいストレッチの仕方などを教えてくれたおかげで、何とく落ち込まずに拳館に通い続けることができました。
この時期の変化は、後になっても何度も思い出すほど鮮明に心に刻まれました。
わずか3か月で、老架一路の套路が、私の体を「もやしっ子体型」から見事脱却させてくれたからです。
少なくとも、普通に茹でた「そうめん」くらいには進化を遂げました。
分かりづらい例えですが、「もやし」と「そうめん」では、太極拳の練習において格段に差がある(と、当時の私は思っていた)のです。
4か月経つ頃には、辛かった筋肉痛も破裂せんばかりの膝痛も治まり、ちょっとした哲学者気取りの太極拳愛好者から、ほんのり陳家溝の風格が感じられる動きへと変わってきました。
頭でっかちの「もやし太極拳」が、太極拳発祥の地で、水の流れに身を任せる「流しそうめん太極拳」へと変化していったのです。
~後日談~
私がこの時期に感じていた「流しそうめん」という状態は、大腿筋や背筋など大きな筋肉がついた後に、さらに繊細な動作を行う細やかな筋肉がついた状態でした。
実際には、しなやかさは多少あるものの、まだまだ「脱節」という無駄の多い動きしかできない状態だったので、その後も正しい動きを理解するまで苦労しました。
しかし、一生できないだろうと諦めていた頭の高さの蹴り技や、低い姿勢からの片足立ちなど、難易度の高い動作が数か月でできるようになったので、心の底から筋肉の成長に喜びを感じた楽しい思い出の時期でした。
初出 2010年11月
つづく