2005年11月末。
数日前に見舞われた全身麻痺(※「目覚めれば全身麻痺」参照)の一件から、私は自分の太極拳の練習方法に行き詰まってしまいました。太極拳館へ行っても毎日心の中は疑心暗鬼でいっぱいで、とても無心に練習に取り組む気になれませんでした。
恐らく「とーっても暗い顔」をしていたのか、館内で一人佇んでいる私を見かねた熟年の男性生徒が、「横山さん、ちょっとおいで」と言って声を掛けてくれました。
「君のためを思って言うんだけど、あまり長期でここにいないほうがいいよ。それより日本に帰って自分の国の慣れた環境でしっかり練習して、年に1〜2回ここの太極拳館に来て、陳正雷老師に直接個人指導してもらったほうが、よっぽど上達するよ」
「大きな声では言えないけど、日本人は中国では嫌われるし、教練も人目があるから君に親切に指導することはできないだろうよ」
(え? え? え? ガーン…!)
私は青天の霹靂のようなショックを受けました。
そう、田舎者で無学な私は、その時まで中国における反日感情というものを知らなかったのです。
もう太極拳の練習どころか息をしているのも申し訳なくなり、その日は授業が終わると逃げるように家に帰りました。
目の前が真っ暗になった私は、けれども夏に体験した河南省焦作での太極拳祭典(年会)の感動や、数人ですが親しくしてくれている中国人の知り合い、そしてたとえ反日感情があろうが、自身の境遇から退路は残されていないことを思い出し、なんとか留学を継続しようと気持ちを無理やりポジティブに切り替えようとしました。
そんな落ち着かない日々を過ごしていたある夜、私は深夜の3時頃に目を覚ましてしまいました。
毎晩よく眠れていなかったせいか、もの凄く気分が落ち込んだので、布団の中で一時間ほど悶々とした後に、寝るのを諦めて好きな映画のVCD(ビデオCD)を観ることにしました。
その映画は、その年にヒットした成龍(ジャッキー・チェン)と韓国の女優キム・ヒソンさんが演じる『THE MYTH 神話』という歴史ロマン大作(+ちょっとファンタジー)でした。
心境が心境だけに、ラストシーンで必要以上に感動して「オ〜ン、オ〜ン」と号泣した私は、久しぶりに脳内でドーパミンを分泌することができたのか、突然「お腹が空いた!」と強烈な空腹を覚え、住んでいる団地の入り口でもう朝の営業が始まっているだろう商店に「鶏卵餅」(具の無いお好み焼きのような朝食)と豆乳を買いに行こうと思い立ちました。
高揚した気分のまま、慌ててパジャマの上から直接外套を羽織った格好で(中国では皆さんそうしているので)、部屋のドアから勢いよく一歩外に出ました。

ドアの外に出た瞬間、
「哎哟! 我的天呢!」
(アイヨ! ウォ ダ ティエン ナ!)→オーマイゴッド!の意
なんと私は、パジャマに外套という姿で、アパートの鍵を持たずにドアを閉めてしまったのです。
中国の一般住居のドアは……、ホテル使用ように閉めると自動的に鍵が掛かってしまうので、鍵を持って出ないと部屋に入れなくなるのです。
季節はまもなく12月、団地の建物の階段は薄暗く底冷えがします。
ちょっと団地の入り口まで朝食を買いに行くだけのつもりだったので、頭はボサボサ、携帯電話も持っていない、手に握っているのは朝食を買うためのわずかの小銭。
ドアの外側には取っ手すらついておらず、おまけに二重ドアの二つともしっかり閉めてしまったので、考える余地もなく、自宅は完全に密室、住人(私)は締め出された状態です。
寒空の下、絶望を感じて大声を出して泣きたい気分になりました。
自宅から距離が近い太極拳館には寮があり、普段授業で指導を受けている表演隊の少年達が住んでいましたが、パジャマに外套というだらしない姿だったので、そこに行ってに助けを求める気にもなれません。
「このままでは凍え死んでしまう…」
と思った私は、意を決しアパートの階段を降り、団地入り口に常時いる靴修理のおじさんに、身振り手振りで状況を説明し、なけなしの現金から数元を電話代として渡して、鍵開け職人に電話を掛けて貰いました。
たとえ私がどれだけコミュ障であろうと、海外で命の危機に対峙すれば、大抵のことはできるものです。
密室になってしまった自宅の部屋のドアの前で、30分ほど寒さに凍えながら職人を待っていると、不機嫌そうな大男の鍵開け職人が道具箱を持ってやってきました。
その鍵開け職人、というより「不機嫌そうな大男」は、私をジロッと睨むと、
「あんたは本当にここの住人か? なぜ家族がいないんだ? なぜあんたみたいな若い女性(日本人は実年齢より若く見られる)がこんな所に一人暮らしをしているんだ?」
と訝しがって色々と質問をしてきました。
私は日本人だとバレるのが怖かったので、無愛想なふりをして「寒いから早く鍵を開けて欲しい」と言葉少なに伝えると、質問攻めを避けるために不機嫌だけは負けるまいと、さらに無愛想なふりをして、大男から顔を背けて待つことにしました。
5分ほどで鍵は無事に開きましたが(大男、腕は一流)、質問に答えられない居心地の悪さから、嫌な汗をかいて風邪をひきそうになっていた私は、大慌てで部屋の中に入り、お財布からお金を取り出して、大男に料金を払おうとしました。
瞬間っ!
……
私はまた鍵を持たずに、ドアを閉めてしまったのです。
恐る恐る大男の顔を見上げてみると、大男は更にもまして訝しげな顔になっていて、私のことを見る目があからさまに不審者を見る目つきになり、私は更に大量の嫌な汗をかき、筆舌に尽くしがたい気まずい雰囲気の中、もう一度鍵を開けてもらう事態になりました。
2回目は倍以上の時間が掛かり、大男は寒さと苛立ちからか「これは通常の2倍の料金を頂かねばならん」と言い出し、無事2度目の鍵開けに成功し2倍の料金を払い終えた私は、大男にお礼を伝えて見送ると、力尽きて部屋に戻るとベッドに倒れ伏してしまいました。
せっかく映画を観て分泌したドーパミンもすっかり消えうせ、朝食も買いそこねましたが、部屋に居ても気持ちは更にどんどん落ちてしまいそうだったので、私はそれから頑張って太極拳館へ行ったのです。
その頃の私は練習をする以外、他には何も無かったのです。
初出 2010年12月
つづく
