2005年9月、河南省鄭州市に渡り早くも2か月が経った頃、毎日『太極拳祭り』のように賑やかだった太極拳館は、夏休みを利用して訪れていた外国人や学生達が皆去ってしまったせいか、急に静かになりました。
そして、「ああ、これが通常の太極拳館の雰囲気なのだな」と感じる程、授業内容は安定してきました。
私は長期留学している唯一の外国人で、太極拳館には特別に外国人向けの授業もなかったので、一般の地元学生や、専門的に太極拳教練養成を受けている陳家溝(ちんかこう、太極拳の発祥地)出身の『表演隊』と呼ばれる、10代の少年を中心に構成されたメンバーと共に授業を受けていました。
しかし、北京で普通話(標準語)しか学んだことのない私は、授業で教練が話す河南省の訛りが殆ど聞き取れず、あまりに長時間集中状態を維持していたためか、毎日ひどい偏頭痛に苦しみながら、必死に授業の雰囲気に慣れようと努力しなければなりませんでした。
そして、わずか2か月で、あっという間にスランプに陥りました。
まず、北京では笑顔で挨拶をすると相手も笑顔で返してくれるのですが、河南省の太極拳館の仲間に同じように挨拶をすると、「なに意味もなく作り笑いをしているんだ」といった風に、露骨に嫌な顔をされます。
仕方がないので諦めて無言でいると、「もっと周囲と打ち解ける努力をしないと、太極拳なんて学べないぞ!」と言われます。
しかし、そんなことより何より苦しかったのは、今まで習ってきた太極拳との練習方法の違いでした。
「体を養うのが太極拳、疲れたら休む、無理をしない、柔らかくゆっくり動く」
それまでは、日本でも北京でもそういう風に習ってきたのですが、太極拳の源流である陳式太極拳は、元々陳一族が村を守る為に開発した武術性の高い太極拳がルーツなので、身体能力に対する要求が桁外れに高いのです。
中国武術界には「学拳容易、改拳難」という言葉がありますが、その意味は「一から武術を学ぶのは易しいが、既に学んだ武術を改めるのは難しい」という意味です。
私は、それまで積み上げてきた(つもりでいた)僅か4年間の太極拳歴だけを心の頼りに、一人単身で河南省まで来ていたので、過去の自分の経験を簡単に放棄することができませんでした。
頭では、それは間違いであると分かっていました。
「一から基本から学ぶのだ、そのためにはるばる河南省まで来たのだ。北京の混元太極拳武館で、基礎が分からず散々悩んだ当時を思い出せ。ここには私が渇望した系統立った基礎練習法があるじゃないか!」
そう心に言い聞かせるのですが、自分よりも二回りも大きな体格の地元学生に囲まれて、あまりの体力の差と惨めさに心が押し潰されそうになっていた私は、素直に練習についていくことができませんでした。
その時、初めて北京では「お客様」として扱われていたことに気が付きました。私は日本の太極拳団体から派遣された留学生という肩書きで北京に滞在していたのです。
河南省では、私の肩書きは通用しませんでした。そこでは、私はただの「太極拳を学びに来ている日本人」に過ぎなかったのです。
もやしのような虚弱な体格の私は、陳式太極拳の型を覚えるどころか、一つの動作を行っただけでも、下半身の筋力不足でまともに立っていることさえできません。
授業中も、授業後の帰宅途中も、頭の中は「アシガイタイ」という6文字だけで埋め尽くされています。
毎日毎日、朝も昼も夜も、「アシガイタイ」「アシガイタイ」「アシガイタイ」、それ以外のことを考える余裕がありません。
毎朝ベッドから降りられない程の太腿の筋肉痛と、今にも破裂せんばかりの膝痛のせいで、夜になると微熱を出し不眠症になりました。それでも、ただ横になっているのは時間の無駄だと考え、早朝4時から中国語学習に取り組みました。
夜が明けると、「また頭痛と筋肉痛しか感じられない授業に出るのは辛いな」と心身ともに拒絶していることを自覚しましたが、そんな弱音を吐いている場合ではないと自分を奮い立たせ、毎日太極拳館に通って練習する日々を送りました。
河南省に来るまでは、「私は日本でも北京でも、心身の修練のために専門的に混元太極拳を学んできたのだ」と、ちょっとした哲学者気取りで学んでいましたが、太極拳の源流である陳式太極拳の発祥地を訪れて「太極拳は本来武術である」という事実を否応なく受け入れざるを得ない環境にいることに気づきました。
来たからには、簡単に帰れるわけもなく、また帰るべき場所もなかった私は、ビシバシと体育会系のような厳しい心構えで取り組まざるを得なくなったのです。
初出 2010年11月
つづく