陳正雷老師との出会いと決意

2005年5月末、北京・志強武館での留学継続を一旦断念した私は、河南省へ渡り、太極拳の源流である陳式太極拳を学ぶための準備の最終段階に入っていました。

中国の学校の一学期は、日本とは違い9月1日から始まります。

3か月後の9月から河南中医学院へ留学するための手続き(本当の目的は太極拳学習でしたが、ビザを取得するために河南中医学院に入学する必要があったのです)を完了した私は、陳式太極拳四天王の一人である陳正雷(ちん せいらい)老師が開校している河南省鄭州市の『陳家溝太極拳館』を訪問しました。

陳正雷老師の太極拳の風格は、日本にいる頃にVHSビデオを通して拝見していたので、実際にお会いできると思うと胸が高鳴りました。

当時、陳正雷老師は非常にお忙しく、年間の大半を海外での太極拳指導に費やされており、中国国内での滞在は年にわずか4か月ほどとのことでした。

日本の太極拳の先生から頂いた紹介状を大切にバッグに入れ、通訳の裴さんと共に『陳家溝太極拳館』の受付を訪ねると、事務員の方が陳正雷老師のお部屋へ案内してくださいました。

緊張しながら入室すると、とても豪華なデスクとソファーが置かれ、壁には立派な書の掛け軸が掛けられていて、その重厚な部屋全体の雰囲気に圧倒されました。

そして、机の向こうの椅子からゆっくりと立ち上がられた陳正雷老師は、優しい笑顔で私たちを迎えてくださいました。

「本物の武術家は一見普通の人に見える」という話を聞いたことがありましたが、実際、陳正雷老師はとても温和な風格を漂わせており、話される声も優しく、聞く人を包み込むような響きがありました。

『陳家溝太極拳館』には新館(シン グゥアン)と老館(ラオ グゥアン)があり、その時、私が訪れていたのは事務所のある新館でした。館内を一通り案内してくださった陳正雷老師は、私の学習動機と求学心が書かれている紹介状をお読みになると、老館へ通うようにとご指示くださいました。

2005年夏、陳正雷老師と記念写真(横山春光)
2005年夏、陳正雷老師と記念写真

老館では主に、女性教練である鄭冬霞(てい とうか)さんという方が指導されているとのことで、私は少し安心しました。

太極拳学習の長期的な計画についての話し合いは順調に進んで、陳家溝太極拳館を去る間際には、ちょうど午後3時から始まるという一般クラスを見学させていただくことになりました。

そして、私はその授業の北京の太極拳館とは全く異なる厳格な雰囲気に、再び圧倒されたのです。

まず全身の関節を緩める準備運動から始まり、続いて太極拳の基礎となる四種類の円運動(纏絲勁 てんしけい)を行います。その後、全ての太極拳のルーツとなった陳式太極拳 老架一路(74式)を30分以上かけて2回行うのですが、老若男女、初心者からベテランまで、様々な人たちが一斉に取り組む30分間の集中の世界は、見ているだけでも大きな感動を覚えました。短い休憩を挟んだ後は、教練が生徒たちに細かな分解動作を指導します。つま先の位置、肘の軌道、股関節の角度に至るまで、それぞれの意味を説明しながら各動作を数センチ単位で厳密に指導していきます。

「これだ!」

今、私に必要な練習は「これだ!」と直感的に確信しました。

そこには体系的に確立された拳理と、300年以上もの間その土地に根付いてきた豊富な経験の蓄積がありました。

右も左も分からず、中国語も話せないまま、ただただ「中国へ行けば太極拳を学べるだろう」という甘い考えで飛び込んだ『北京・志強武館』。無形の境地に至った老師から学ぶ難しさ、迷い、言葉の壁。それらの挫折が、今、私をこの地へ導いてくれたのだと思いました。

ここでなら、焦らずじっくりと基礎から確実に学べる。

そう確信しました。

数日前に亡くなった祖父。望んでいなかったのかもしれないけれど、私を産んでくれた母。そして高校卒業後、バッグ一つで家を飛び出したあの頃の自分の気持ち。実家に残していく弟への申し訳なさと寂しさ。弱者に冷たい東京の暮らし。理由のわからない不安と孤独と恐怖。病んでいく心と体をどうにもできない自分。そして、そんな自分を終わりなく責め続けた私。

人間が本当に幸せになるために、どれほど多くのことを学ばなければならないのだろう。

そう思いながら、必死に生きてきたこと。

どんなに挫折や絶望に打ちひしがれても、心の中に小さく輝く希望の光が消えなかったこと。

ここまで辿り着けたのは、きっとその光と、多くの人たちが私が気づかないところで、さまざまなことを教えてくれていたおかげなのだと思いました。

前へ進もう。

河南省留学へ向けての全ての準備を終え、帰国のために一旦北京へ戻る夜行列車の中で、そう決意しました。

初出 2010年10月

つづく

この記事を書いた人

日本中国伝統功夫研究会の会長。八卦掌と太極拳と華佗五禽戯の講師。中国武術段位5段/HSK6級/中国留学歴6年(北京市・河南省)