2005年1月10日の早朝4時30分、私はいつもより早起きをしてビザの更新をするための帰国の準備をしていました。
これが渡中後、初めての帰国でした。
そして、私の心は不安と戸惑いで一杯でした。
日本に帰るのが怖くて怖くてたまらないのです。
日本に帰れば一瞬の内に夢が醒めてしまい、もう二度と中国へ戻れなくなるのではないか? 鉛のような現実と常識が私の夢を呑み込んで、中国で頑張った3か月などあっという間に消えてしまうのではないか? そうなったら何も抵抗するすべを持っていない、と知っていた私は、まるでこれから悪い夢でも見に行くような暗い気持ちで荷造りをしていました。
当時、私には日本で連絡を取れる人は殆どいませんでした。
最後の友人だった派遣社員時代の先輩は、私が27歳の頃に何もかも捨てて太極拳の先生が住職をしているお寺に住み込みに入ったことで絶縁状態となっていました。他にも数少ない知り合いがいましたが、中国留学を反対されていたので私の方から連絡するのを避けていました。
働いてもいない、何者でもない、これからどうなるかも分からない自分。
もし電話を掛けれるような相手がいたとしても、その状況をどう話していいか分からないと思いました。
荷造りを終えて北京空港へ向かうタクシーの中で、グルグルと不安の落とし穴に落ちかけようとしていたとき、心の中に具体的な恐怖の塊がゴロリと転がっていることに気がつました。
「ああ、そうか、私、高所恐怖症だったんだ!」
「このとんでもなくイヤな感じは、飛行機に乗らなきゃ日本に帰れないからじゃないのか!」
と漠然とした恐怖を具体的な恐怖にすり替えた私は、一瞬気持ちが晴れそうになったのですが、すぐさま全然平気じゃないことに気がつき、
「ああ、なぜあの鉄の塊(飛行機)が空を飛ぶことができるんだろうか?」
という科学的かつ物理的な原理の確認と、人間が機械に乗って空上を飛行するという倫理的観点について、事前に納得いくまで調べておけばよかった、という訳の分からないことを考えながらタクシーに運ばれ、予定時刻きっかりに北京空港に到着しました。
そわそわしながら搭乗時間まで空港で過ごし、1月の北京の凍える寒さのボーディング・ブリッジを通過して北京発の飛行機に乗り込むと、私の心とは無関係のように順調なフライトで、搭乗してから約3時間であっけなく成田空港に着陸しました。
空港から都内へ向かうために乗り込んだリムジンバスの窓から外を見ると、4か月ぶりの東京の景色はとても繊細で柔らかでした。
ビルの輪郭は細く控えめで、街の色彩は淡く洗練されており、清浄な空気と微笑を絶やさない人々が話す日本語は、東京から約2100km離れた北京をより恋しく感じさせました。
「つらい……」
久しぶりに帰ってきた東京の街で、私は一人ぼっちだと感じました。
帰国したら食べるのを楽しみにしていた大好物の天婦羅うどんも、まったく美味しく感じませんでした。
北京にいたときは、どんな逆境だって自然に底力が湧いてきて乗り越えられたのに、東京に帰ってくると足元から力が抜け出ていくような無力感を感じました。
(中国で一生暮らそうかな……)とふと思いましたが、それも違うような気がしました。
日本人が中国へ渡って、そっくりそのまま中国人になってしまっても、それでは意味がないんじゃないか? 私は1976年に日本で生まれて、2004年までの28年間を日本で生きたんだから、それまでに起こった色々な出来事や、それまでに見てきた色々な風景、それら全てが今の私の中で息づいているんだ、と思いました。
純粋な日本人の私が、純粋に中国の太極思想を求めて中国へ渡った。それはなぜなのか、何がそうさせたのか、そしてなぜ今、私の足は日本の地を踏みこんなにも震えているのか?
いつか、その答えを見つけたい。そのうえで日本に帰ってきて、止まった時計を動かして、ちゃんと生きたい。
そのために今、ただちっぽけで震えることしかできない自分をしっかり憶えておこう、そう思いました。
初出 2010年7月
つづく