2005年4月、北京の厳しい寒さも和らいだ頃、私は陳項(チェン シィアン)老師宅のリビングで、ご息女の怡舫(イー フゥアン)さんと一緒に中国語の勉強をしていました。
遡ること1か月前、陳項老師からのご意向で怡舫さんと日本語と中国語の相互学習を勧められたのです。
「週に数回、家に来たらいい、家族と一緒に食事もできるし、横山(ホン シャン)も女の子の友達ができて寂しくないだろう」
そのご厚意を受けて、中国に来て初めて年下の女性と親交を深めるチャンスに恵まれました。
怡舫さんは大学四年生で、学業に秀でていて英語が得意だと言っていました。趣味で日本の漫画やアニメが好きだったので日本語も学びたいと思ったようです。中国人にとって日本語の発音はそれほど難しくないので、私から日本語の文法を学びたがっていました。
しかし私は日本語の文法を教える勉強をしたことがないし、たとえ文法を一から考えたとしても説明する中国語力がなかったので、できることといったら発音指導と日常会話の相手くらいしかありませんでした。
そういう状態だったので、相互学習と言っても怡舫さんの日本語学習には毎回ほとんど貢献できず、私は申し訳ない気持ちになり、「もうそろそろいいわ、次はあなたの中国語学習の時間よ」と怡舫さんが日本語のテキストを閉じる度に、本当に居心地が悪くなりました。
そして、怡舫さんの中国語の発音は北京女性特有の、非常に“亮”(明るく響きの高い音)な声で、日本人の私にとっては舌と喉の筋肉を酷使し、また肺活量も求められるので、まるで京劇のような練習に私は毎回のように酸欠になっていました。
その頃、怡舫さんとの相互学習とは別に、『北京・志強武館』に隣接している按摩学校の生徒で黒竜江省出身の友人に発音と中国語会話を習っていたので、同じ中国語でも随分違いがあるな、と思いました。
黒竜江省のある中国東北部はピンインの発音が中国の標準語「普通話(プートンフォア)」と同じで、なおかつ北部特有の儿化も北京語ほど強くないので、初心者の私としては聞き取りやすく発音もし易かったのです。
遅々として進展しないこの相互学習に、怡舫さんと私は徐々に不毛さを感じ始め、焦る私はいつも怡舫さんが好きだという日本の漫画やアニメの話をしようとするのですが、怡舫さんが好きな、あだち充の『タッチ』や、和月伸宏の『るろうに剣心』や、中国でも人気の高い日本の近代アニメの知識が皆無で、逆に私が好きな宮崎駿作品は怡舫さんには興味が無く、最後の切り札『ドラゴンボール』ですら怡舫さんの反応を得られず、話題は一向に盛り上がらず、もはや我々の友情の進展は望めませんでした。
追い詰められた私の口から最後に発することができた言葉は、陳項老師への尊敬の気持ちと、中国伝統文化の結晶である太極拳が如何に素晴らしいかを残すのみとなり、(思春期の娘さんだからお父さんの話は嫌がるかなぁ?)と心配になったのですが、それは取り越し苦労で、怡舫さんは父親の太極拳講師という職業を誇らしく思っていて、私の言葉をそのまま受け入れてくれたので、やっと安心しました。
そんなやりとりをしながら何気なくリビングの窓の外に目を向けると、ちょうど陳項老師が自宅付近の公園からお弟子さん達との練習会を終え、一人で歩きながら帰って来られる姿が見えました。
「あ、陳項老師だ、いいなぁ、私も公園で練習したいなぁ、今日はどんな練習をしたんだろう?」
と、進展のない相互学習から逃げ出したくて、本来の目的でである太極拳に思いを馳せながら陳項老師がこちらへ歩いて来る姿を見ていると、怡舫さんが「私のお父さんは、とても優しくて勉強熱心で、家にいる時はいつも易の本や中医学の専門書や太極拳の古文を研究しているのよ」と言いました。
私は「そうなんですね」と返事をしながら、再び歩いている陳項老師に視線を戻すと、なにやら様子が普通ではありませんでした。
初出 2010年8月
つづく