REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

北京を去る日

北京の冬

2005年6月上旬、太極拳の発祥地である河南省への留学準備のため鄭州市に滞在していた私は、帰国に先立ち、一旦北京へ戻ってきました。

滞在していた約一週間、私の唯一の連絡手段だったPHS電話は、北京市朝陽区の自宅に置きっぱなしにしていました。(PHSは市外では使用できなかったため)

帰宅してPHSを確認してみると、留守番電話にたくさんのメッセージが入っていました。

そのほとんどが陳項(チェン シィアン)老師からのもので、内容は「横山(ホン シャン)、どうしたんだ、連絡が取れないから武館の人たちも娘もとても心配しているから、連絡をするように」というものでした。

メッセージを聞いた私は、すぐに陳項老師に電話をかけようと思いましたが、何をどう説明すればよいのかわかりません。

また言葉の行き違いから誤解が生じるのではないか、という不安な気持ちが出てきて、どうしても電話をかけることができませんでした。

それから散々考えて、最後はとうとう諦めて、日本の太極拳の先生に相談しました。先生は、「実家の都合で急遽帰国することになりました」と伝えるのが無難だと判断し、日本から『北京・志強武館』の専属通訳である許さんという方を通じて、武館へそう伝えました。祖父が亡くなったことは事実でしたが、河南省のことや、武館で起きたことを伝えたわけではありませんでした。

前例のない長期留学生を受け入れていただき、食べ物から着る物までお世話をかけてしまったこと、そして学費のことも、太極拳の学習をどう続けるかということも、話し合えないまま終わってしまうことが、申し訳なくてたまりませんでした。学費のことは、手帳から授業時間を計算して払うというやり方に、私が意固地になっていたのではないか、とも思いました。けれど、「你说了算」(あなたが決めていい)という言葉は、今の私にはまだ越えられない壁で、どう考えても答えが出せそうにありませんでした。

本来ならば、きちんと自分で武館へ出向き、お礼の言葉と帰国する報告をすべきだったのかもしれませんが、どうしても、どうしても、そのときの私には言葉が通じないのが怖かったのです。

北京へ来たばかりの頃、中国語が分からなくて授業中に泣き出してしまった私と一緒に泣いてくれた優しい盧春老師。私に剣の気を教え、武館の鍵まで貸してくださった秀茜老師。体調を崩していた私に薬膳スープを飲ませてくれた阿甜。私に、仲間と過ごす毎日を初めて味わわせてくれた按摩学校の学生の皆さん。そして、私に初めて“天人合一”の境地を体現して見せてくださった陳項老師。

帰国を前に、北京の裏路地を歩きながら『志強武館』で過ごした約8か月間の日々を思い出していると、寂しさと申し訳ない気持ちで胸が締め付けられ、滲んでくる涙で街並みが歪み、感情を整理できないまま、その景色が心に刻まれていくのを眺めることしかできませんでした。

北京を去る日

本当にこれでよかったのかという思いにも駆られましたが、先日訪れた河南省『陳家溝太極拳館』で見たものが、私の背中を押しました。

そして何より、『北京・志強武館』の創立者であり混元太極拳の創始者である馮志強老師は、陳家溝出身で陳氏太極拳17世の陳発科老師より陳式太極拳を学ばれたのです。

河南省へ行こう。

太極拳のルーツを辿ってみよう。

そうすれば、あの心地よい流れの真髄に今よりも近づけるかもしれない。

帰国の荷造りを終え、様々な思いを胸に、夕暮れの市場や空の色を眺めながら北京の裏路地を半日も歩いた私は、翌日の2005年6月2日、北京空港から日本へ向かう飛行機に乗りました。空港まで見送りに来てくれた小钱は、実家へのお土産に、と龍眼を持たせてくれました。

初出 2010年9月

後日談

その年の暮れ、私は再び『北京・志強武館』を訪ねました。職員の皆さんと秀茜老師は温かく迎えてくださり、誰も練習していない武館を、自主練習に使わせてくださいました。その後も、武館の皆さんとの交流は続きました。

つづく