2005年6月上旬、太極拳の発祥地である河南省への留学準備のため鄭州市に滞在していた私は、帰国に先立ち一旦北京へ戻ってきました。
滞在していた約一週間、私の唯一の連絡手段だったPHS電話は、北京市朝陽区の自宅に置きっぱなしにしていました。(PHSは市外では使用できなかった為)
帰宅してPHSを確認してみると、留守番電話にたくさんのメッセージが入っていました。
その殆どが陳項(チェン シィアン)老師からのもので、内容は「横山(ホンシャン)、どうしたんだ、連絡が取れないから武館の人たちも娘もとても心配しているから、連絡をするように」というものでした。
メッセージを聞いた私は、すぐに陳項老師に電話をかけようと思いましたが、何をどう説明すればよいのかわかりません。
また言葉の行き違い(学費トラブル「異文化摩擦」を参照)から誤解が生じるのではないか、という不安な気持ちが出てきて、どうしても電話をかけることができませんでした。
それから散々考えて、最後はとうとう諦めて、日本の太極拳の先生に連絡を取り、『北京・志強武館』の専属通訳である許さんという方にお願いをして、「横山さんは実家の都合で急遽帰国することになりました」と伝えてもらうことにしました。
前例の無い長期留学生を受け入れて頂き、食べ物から着る物までお世話をかけしてしまって大変申し訳ない気持ちと、私の中国語力の不足により、学費の問題や「どうすれば太極拳学習を継続できるか」という双方の難問が生じたことは、すべて私の準備不足のせいだと深く反省しました。
本来ならば、きちんと自分で武館へ出向き、お礼の言葉と帰国する報告をすべきだったのかもしれませんが、どうしても、どうしても、そのときの私には言葉が通じないのが怖かったのです。
北京へ来たばかりの頃、中国語が分からなくて授業中に泣き出してしまった私と一緒に泣いてくれた優しい卢春先生。ヒヨヒヨした私に剣の気を教え、武館の鍵まで貸して下さった秀茜先生。中華料理に馴染めず栄養失調になった私に薬膳スープを飲ませてくれた事務所の甄おばさん。登校拒否児だった私にもう一度同級生と楽しい時間を過ごす機会を与えてくれた按摩学校の生徒の皆さん。そして、私に初めて”天人合一”の境地を体現して見せて下さった陳項老師。
帰国を前に、北京の裏路地を歩きながら『志強武館』で過ごした約8か月間の日々を思い出していると、寂しさと申し訳ない気持ちで胸が締め付けられ、滲んでくる涙で街並みが歪み、感情を整理できないまま、その景色が心に刻まれていくのを眺めることしかできませんでした。

本当にこれでよかったのかという思いにも駆られましたが、その迷いを払拭するように、先日訪れた河南省『陳家溝太極拳館』での体験が私の背中を押してくれました。太極拳発祥地の体系的な学習法と豊富な経験の蓄積こそ、今の私に必要なものだという確信が芽生えたのです。
そして何より、『北京・志強武館』の創立者であり混元太極拳の創始者である馮志強老師は、陳家溝出身で陳氏太極拳17世の陳発科老師より陳式太極拳を学ばれたのです。
河南省へ行こう。
太極拳のルーツを辿ってみよう。
そうすれば、あの心地よい流れの真髄に今よりも近づけるかもしれない。
帰国の荷造りを終え、様々な思いを胸に北京の裏路地を半日も歩いた私は、翌日の2005年6月2日に北京空港から日本へ向かう飛行機に乗りました。
-後日談-
その数か月後、中国語をなんとか話せるようになった私は、遅ればせながら『北京・志強武館』の皆さんを訪ね、ご挨拶に伺いました。お互いの誤解が解け、その後も交流を続けることができるようになり、言葉できちんと相手に伝えることの重要さを身をもって学びました。
初出 2010年10月
つづく