秀茜老師の混元太極剣の特訓が一旦終了した私は、武館と歩いてわずか30秒程しか離れていない旅館との往復の日々に退屈を感じていました。
外出禁止の言いつけ(※『水を求めて市内を彷徨う』を参照)はあったのですが、さすがにどこにも出かけないと神経が参ってしまいそうでしたし、仲の良かった按摩学校の生徒に中国語を教わっているときに「せっかく北京に滞在しているのにどこにも出かけないのはもったいないよね」という話にもなったので、付き添いがいるという条件を武館の事務員の人に伝えて、北京市内へ観光に出かけました。
「你想去哪玩儿?」(どこに遊びに行きたいの?)
と友人に聞かれた私は、すぐに
「我想去书店!」(本屋さんに行きたい!)
と答えました。
市内バスに乗って北京で有名なショッピング街の王府井へ向かうと、車窓からは毎日武館で太極拳の練習ばかりしている日々とはまるで違った華やかな世界が広がっていて、急に心が弾みだした私は、嬉しくて嬉しくて踊りだしそうになりました。
王府井の入り口でバスを降りて、大通りをまっすぐ歩き目的の新華書店へたどり着くと、たくさんの中国語の本が並んでいました。
(本屋さんに来たのはいいけど、どの本を開いてもきっと読めないだろうな)
と思っていると、友人が「まずは児童書コーナーを見てみよう」と勧めてくれました。
しかし、児童書の棚にある子供向けの『水滸伝』や『西遊記』などの本を開いて眺めてみても、当時の私にはただ挿絵があるだけの普通に難しくて読めるわけがない漢文書にしか見えなかったので、奥にある絵本のコーナーへ向かい『100万回生きたねこ』という絵本を見つけました。猫のお話なら少しは文章を読めるかなと思った私は、友人に中国語の解説をしてもらいながら一緒に読んでもらうことにしました。
かなり有名な絵本だというのは後から知ったのですが、私はこのとき初めて読んだので、お話のラストで感極まってしまい人目もはばからずグスグスと泣いてしまいました。隣で一生懸命に解説をしてくれていた友人は急に泣きだした私に驚いて「泣かないで、泣かないで、泣くと身体に悪い!」と言って慌てて私を本屋から連れ出してしまいました。
私はもう少し絵本の余韻に浸っていたかったのですが、どうやら責任感の強い友人に急き立てたれて王府井からまたバスに乗って、今度は天安門広場の西側にある人民大会堂へ向かいました。
周囲を散策している途中、屋台で糖葫蘆(タンフールゥ)という山査子(サンザシ)版りんご飴のような中国伝統のお菓子と国旗の小旗を買い与ってもらい、初めて食べる甘酸っぱい糖葫蘆の物珍しさと、いかにも観光客っぽい旗と一緒に記念写真を撮ったことで、私はすっかり気分が良くなりました。
ケロっと笑っている私の姿を見た友人は、安心したのか任務終了とばかりに「さぁ、外は空気が悪いから長くいると身体に良くない、はやく武館に帰って休んだほうがいい」と言って、まだ午後2時だというのにバスに乗って武館に戻ることになりました。
つかの間の気分転換を過ごして旅館へ戻った私は、荷物を置いて着替えを済ませ、のんびり休憩しようとベッドに横になると、唐突に「ガンガンガンガン!ホンシャン(横山)!ザイマ?(いるの?)」というけたたましいノック音と呼び声が聞こえてきました。
驚いてベッドから飛び起き、慌ててジャージに着替え直しドアを開けると、そこには太極拳武館の事務員の女性が目を輝かせながら立っており「陳項(チェン シャン)老師が武館に来たよ!」と言って、私に急いで老師に会うように促し、武館へ戻って行きました。
なにごとかと思って急いで武館へ行くと、館内には西日が差し込んでいるだけで誰もいませんでした。
(あれ、もしかして私、また聞き間違えたのかなぁ?)と自信がなくなりキョロキョロしていると、外から話し声が聞こえてきて、その声が近づいてくるとドアが開き、まるで熊のような歩き方をしている強面の男性と、そのお弟子さんのような男性2人が武館へ入ってきました。
この熊のような歩き方の老師が、この数週間後に「天人合一」という中国思想の最高境地を体現してくださった陳項(チェン シャン)老師だったのです。
初出 2010年4月
つづく