中国の年越しは旧正月(春節)なので、12月31日も1月1日も通常通り武館には人が沢山いました。
日本にいた時は、18歳で上京してからずっと自称「年末病」(年末に会社が休みになって周囲の人が実家へ帰ってしまうと酷く落ち込んでしまう病)になっていたので、中国の習慣はとても助かりました。
といっても約1か月後には中国も春節に入り約2週間の放暇(ファン ジィア=長期休み)になり、全員帰郷してガランとしてしまうのですが、気分的に「2月はお正月じゃないもん!」という感覚があったので、ただひたすら退屈な以外は、特に日本にいた頃の年末病のような取り残され感に苛まれることはありませんでした。
「お正月なのに、いつもと変らず武館に人が一杯いる!」というのが新鮮やら嬉しいやらで、朝っぱらからウキウキしながら珍しく元気に武館で練習していると、外から沢山の人の声がして、台湾から来たらしい太極拳学習団の人たちがドヤドヤと武館に入って来ました。
陳項老師と事務所の人たちの様子が普段と違うので(どうしたのかな?)と思っていると、なんと続いて馮志強老師がお越しになりました。
私が滞在していた『北京・志強武館』の創立者である陳式太極拳第十八代継承者、また陳式心意混元太極拳の創始者でもある馮志強老師ですが、武館にいらっしゃることは少なく、私が北京へ渡ってからの4か月の間にも、10回程しかお目にかかることはありませんでした。
しかし、馮老師は私を見かけると、
「横山(ホン シャン),好好练!(がんばって練習しなさい)」
「小女孩儿(小さな女の子),很能坚堅持!(辛抱強い)」
と優しい声を掛けてくださり、いつも励ましてくださいました。
私は当時、既に28歳で小女孩儿ではなかったので「28歳です」とお伝えしていたのですが(日本人は中国では幼く見みられる)、それでも馮老師は「うーむ、でもやはり横山は小女孩儿だ」とおっしゃって、「太極拳を良く練習すれば大きくなれる!」と言ってくださいました(実際にその数年後、身長が2cm近く伸びました)
馮志強老師は中国の武術界でも非常に有名な太極拳の大家です。その功夫の深さと人徳の高さは、中国各地何処を訪れても耳にする程です。
その日も遠くから訪れた学習団の人たちは、馮老師にお会いできたことが嬉しくてたまらないといった様子で、馮老師の一言一句も聞き逃すまいと、真剣な眼差しで講義を受けていました。
私は武館の隅っこで見学していたのですが、休憩時間に学習団からのお土産のコーヒーを召し上がっていた馮老師が、突然鋭い眼光でこちらを見ると、コーヒーカップを手にしたまま私をロックオンしたかのように、ゆっくりと歩きながら近づいて来られました。
「ひょ、ひょ、ひょ、馮老師がこっちへ来る。ど、ど、ど、どうしたんだろう? 私なにか失礼なことをしたんだろうか? え! ここ? もしかして、ここに座ってるのがいけなかったんだろうか? あああ、どうしよう」
馮老師がまだ私より随分距離のある場所にいらっしゃる時点で、私は蛇に睨まれた蛙どころの話ではなく、ライオンに睨まれた生まれたての小鹿の如く、立ったり座ったりキョロキョロしたりして、オロオロ狼狽していると、依然として鋭い眼光のままの馮老師は厳しい表情で私の方へ向かって歩いて来られました。
「あああ、きっと私は何か過失を犯したのだ、馮老師は私を叱るためにこちらに歩いてこられるのだ、これはもう素直に叱られよう」
と覚悟を決め、直立不動で馮老師が何かおっしゃるのを待っていると、私の目の前まで歩いて来られた馮老師は、相変わらず鋭い眼光のまま、ゆっくりと右手に持たれていたコーヒーカップから一口コーヒーを飲まれると、突然、左手の親指を立てて、「good !」のサインをすると、とても流暢な日本語で、
「美味しい!」
とおっしゃって、私にもコーヒーを飲むように遠くのポットを指差すと、変らぬ表情のまま、またゆっくりと歩きながら皆さんの所へ戻って行かれました。
ヘナヘナとその場にあった椅子に座り込んでしまた私は、直ぐにいつもの馮老師のユーモアであったことに気がつき、一人でポツンと見学していた私を、さりげなく気遣ってくださった馮老師の心遣いに、コーヒーを飲む前からもう既に心が温かくなっていました。
馮老師について武館の皆さんが良く言われる言葉に「細心」と「幽默」というのがあります。「細心(シー シン)」はきめ細やかな心遣いができるという意味で、「幽默(ヨウ モォ)」はユーモアという意味です。
でもそれは、ただ単に馮老師が生まれつきユーモアが好きだった、ということではなく、太極拳を練習している場で起こりやすい「意念過度」の状態を適度なユーモアで緩和させたり、難解過ぎて私達が迷子になりそうな太極拳論を、別の角度から活き活きとわかりやすく説明してくださろうとする、思いやりと指導力の高さ故の手段だと感じました。
初出 2010年7月
つづく