陳家溝の民家を訪ねる

2005年12月、河南省鄭州市に渡って5か月目。

私は毎日怯えるように太極拳館へ通っていました。

反日感情という問題を初めて意識してから、もう学ぶどころか中国にいることすら申し訳ないような気がして、日に日に心が萎縮していきました。

(このままでは、潰れる…)

そう思った私は、夏の国際太極拳合宿で友達になった陳家溝に住んでいる中学生の刘欣(リュウ シン)君のお兄さん(太極拳館の表演隊に所属している)に頼んで、陳家溝で教師をしている母様に「陳家溝を訪問したい」と伝言してもらいました。

とにかく数日でもいいから、その場から逃げ出したかったのです。

週末にちょうど帰省する予定があったお兄さんの刘洋(リュウ ヤン)さんが、長距離バスで一緒に陳家溝まで連れて行ってくれることになりました。

太極拳発祥の地である陳家溝へは、以前太極拳留学の候補地として訪れたことがありました。しかし、通訳さんや日本の太極拳の先生と一緒で、半分観光気分だったため、印象が薄かったのです。今回は地元の方々と直に触れ合える良いチャンスになる!と少し期待を持ちました。

リュウ ヤンさんのお母様は陳家溝の隣村で小学校教師をされており、日本人である私を快く迎えてくださいました。

底冷えのする陳家溝の民家の客間で、電波の悪いテレビを眺めながら、リュウ シン君とお兄さん、お母様、そして私の四人で様々な話をしました。話が弾むうちに、やがて日本と中国の過去の歴史や戦争の話題へと移っていきました。

私の中国語力が不十分だったせいか、会話の中で「日本人は中国では嫌われているので、生活するのが大変です」というニュアンスの発言をしてしまいました。するとリュウ ヤンさんの逆鱗に触れ、「僕たちが日本人を嫌っているんじゃないよ。日本がきちんと過去の行いに対して謝罪をしないからだ」と強い口調で叱責されてしまいました。

「弟の友人でなければ、寒空の中へ叩き出していた」と言われて初めて、私は自分が被害者のような気分でいたことの不適切さに気づきました。

詳しく話を聞くと、リュウ兄弟の祖父は戦争中に日本兵に殺されたそうです。

激昂するお兄さんを「まぁまぁ、彼女はその時代にはまだ生まれていなかったんだから、責めるのは可哀想でしょう」とお母様がなだめてくださり、何とか雰囲気は収まりました。しかし私は、ますます「歴史について不用意な発言をしてはならない」と自分を戒めました。

その日の夜は、リュウ兄弟の家で陳家溝(農村)の一般的な夕飯をご馳走になりました。中国では「食药同源(医食同源)」といって「食事と薬は源が同じである」という伝統思想が深く根付いているので、食事の時は家族や友人同士で食材や料理の効能などの話をよくします。

また、これも中国の習慣ですが、食後はリビングのソファーで会話を楽しみます。陳家溝は電力供給が不十分なため、火の消えた炊事場が時間とともに冷えていき、リビングも徐々に底冷えしてきました。リビングも徐々に底冷えがしてきました。

お母様がリュウ兄弟と私に、クコの実をお湯で割った温かい飲み物を何杯も注いでくれるので、私はわんこ蕎麦のようにクコの実ドリンクを飲みながら暖を取り、夜が更けると、空いているベッドで寝かせてもらいました。

しかし、このクコの実をお湯で割ったほぼ水分の飲み物を飲みすぎてしまったのが原因で、私は一晩中トイレに行きたいのを我慢することになりました。

その訳は、就寝前に月明かりの下で案内された屋外のトイレ(厠)が、裏庭の畑の隅にレンガで囲われただけの「ただの穴」だったからです。

案内された瞬間はなんとか自力で行けそうな気がしたのですが、いざ真夜中になってみると外は真っ暗だし、玄関の門の開け方もわからないし、それより何より屋内ですら恐ろしいほど寒かったので、屋根すらない厠へとても一人で行く気にはなれませんでした。

ベッド脇の窓から見える透き通るように澄んだ月を時々眺めながら、極限の尿意に耐えていると、徐々に気が遠くなってきて、布団に丸まっていてもどんどん気温が下がってくるのを遠くに感じながら、じりじりとした思いで夜明けを待ちました。

……

待ちに待った翌朝!

リュウ シン君が学校へ行った後、急いでトイレを済ませて正常な意識に戻った私は、昨夜の激昂などケロリと忘れたかのように上機嫌なリュウ ヤンさんと、お母様と一緒に、陳家溝巡りへ出発しました。

陳一族の先祖代々の墓石、太極拳の開祖である「陳王廷祖師」を祀った記念館、陳家溝の村名の由来となった溝(現在は水が枯れている)など、リュウ ヤンさんのお母様は、太極拳に関わる全ての場所を丁寧に案内してくださいました。

おかげで私は少し気分が晴れてきました。しかし、途中で立ち寄った陳家溝にある太極拳学校の一つで、校内に「日本兵が攻めてきた時に、何某という達人が打ちのめした…」という内容が書かれた案内板を見つけました。それを無表情で読んでくれたリュウ シンさんの心境を考えると、また落ち込んでしまいました。

しかし、様子を見ていると、どうやらリュウ シンさんには反日感情はあるものの、私個人を嫌っているわけではなさそうなので、あまり気にしないようにしようと思い、素直に案内されるがままについて行くことにしたのですが、次に立ち寄ったリュウ シン君の学校で、私は本当に心からカルチャーショックを受けたのです。

リュウ シン君は中学一生でした。私が学校へ顔を出すと、同級生たちは好奇と(なぜか)羨望の眼差しで私の周りに集まってきて、それはそれは大騒ぎになりました。

「初めて日本人に会った! サインちょうだい!」

とねだる男の子がいたので、私が「いや、私は有名人じゃないし、そもそも日本でも漢字使うから同じだよ」と言うと、それでも「どーしても」欲しいと譲りません。

仕方なく、私の名前を書いてあげると「なんだ、これ中国語じゃないか。日本語を書いてよ!」とコントのようなやりとりになってしまい、周囲が笑い声に包まれました。

その騒ぎが一通り収まると、今度はまた日中関係の話題になりました。

12歳くらいの男の子達が揃って、「お姉ちゃん、日本へ帰らないでずっと中国にいなよ!もうすぐ日本と中国は戦争をするんだよ。僕達はお姉ちゃんが好きだから、お姉ちゃんと戦いたくないから、ずっと中国にいて中国人になって!」と無垢な目で訴えてくるのです。

なんと答えたらいいのか分からない私は、辺りをキョロキョロしていると、女の子たちが遠巻きに私を見ながら、「日本人の女の人って優しそうね。家ではずっと跪いて主人を待ってるらしいのよ。黒い髪が綺麗ね、私たちと同じ色ね」と、きゃっきゃと見物しています。

男の子たちがあまりにも戦争の話をするので、私は「日本はもう戦争はしないよ、大丈夫だよ」と言ってみましたが、誰も聞いてくれません。「だめだ、お姉ちゃんは女の人だから政府のことを知らないんだ。絶対に日本に帰っちゃだめだよ、ずっと中国にいてよ」と、取り付く島もありませんでした。

(中国の農村では、こんなに小さな子どもたちでさえ政府や国家、政治の話をするんだ…)

私は改めて、自分の留学の意味を考えさせられました。

大きなカルチャーショックを受けた私は、帰りにリュウ兄弟のお宅にもう一度立ち寄り、お昼ご飯をご馳走になることになりました。

リュウ兄弟のお婆ちゃんは、私を見て「私はこんな女の子の孫が欲しかったんだよ」と言って、特別に炸酱面(ジャージャー麺)を作ってくれました。

火を起こしたかまどで、陳家溝では貴重だという豚肉と、裏の畑で取れた野菜を入れて、お婆ちゃんが作ってくれた炸酱面は、素朴で美味しくて優しい味でした。

夫を日本兵に殺されたにもかかわらず、日本人の私を孫のように思ってくれたお婆ちゃん。ニコニコしながら私が食べている姿を見守るその顔を見たとき、私は泣いてしまいました。

そして、その後の6年間の中国留学生活で、私は何度反日感情を向けられても、「私はその時代には生まれていませんでした」とは一度も言いませんでした。

言えませんでした。

お婆ちゃんの炸酱面が、それまで自分の問題ばかり頭を抱えていた私を変えたのです。

この頃から、私の心は少しずつ外へと向き始めました。

初出 2010年12月

 つづく

この記事を書いた人

日本中国伝統功夫研究会の会長。八卦掌と太極拳と華佗五禽戯の講師。中国武術段位5段/HSK6級/中国留学歴6年(北京市・河南省)