2006年の1月28日、中国に留学してから初めて迎える旧正月の前日、つまり日本で言うところの大晦日の夜、私は自宅のアパートで、なかなか寝付けない夜を過ごしていました。
旧正月に入る前の陳家溝太極拳館の年末イベントで、陳正雷(ちん せいらい)老師にお会いしたとき、老師から直接、
「春節(正月)は日本に帰るのですか? 帰らないのであれば、私の家にいらっしゃい。家族と一緒に年越しをしましょう」
と声をかけていただいたので、他の友人知人からの誘いはすべて断り、自宅で陳正雷老師からの連絡を待ち続けていたのです。
しかし、待てど暮らせど私の携帯電話は「リン」とも鳴りません。
ぼんやり眺めていたTVからは、日本版『紅白歌合戦』のような番組が派手に流れていましたが、電波状況が悪く、画像のノイズが強すぎて頭痛がしそうでした。
そして、年越し番組をぼーっと眺めているうちに、あっという間に年が明けてしまいました。
私は寂しさが込み上げてきて夜中に泣きそうになり、自分でも止められないほど心が暗い底へと沈んでいきました。
(どうしてト文徳老師は、年越しの夜に私を呼んで下さらないのだろう?)
(どうして陳正雷老師は連絡を下さらないのだろう?)
(どうして中国の人は、挨拶をするたびに「何か困ったことがあったらいつでも言いなさい。力になるから」と言うのに、実際に頼み事をしても放置されるのだろう?)
(どうして私は、いつも頼まれたことには誠心誠意応えているのに、太極拳館の仲間との友情が深まらないのだろう……)
……
(きっとまた、私の勘違いなんだろうな。まだ河南省の土地の風習に慣れていないだけなんだ)
年越しのカウントダウンを終えた中国版『紅白歌合戦』は、次第に新年を祝うエネルギッシュな雰囲気と変わり、司会の台詞も中国大陸全土を震撼させるかのような壮大でポジティブな言葉の連呼となり、孤独な私の部屋中に響き渡っています。
(寂しいな…)
後から知ったのですが、中国の伝統的な習慣では大晦日と元旦は家族で過ごすのです(いや、よく考えてみたら、日本もそうだろう!)
シングルマザーで、親がほとんど不在の家庭で育った私は、年越しの常識が身についていなかったのか、それとも中国人特有の人情に熱く、外国人の私にも熱心に寄り添ってくれる環境に慣れてしまったのか、必要以上に落ち込んでしまいました。
どんなに近しい弟子であっても、大晦日の夜に師匠の家へ伺うことはありません。新年の挨拶は、元旦の翌日、または翌々日に「拝年」と呼ばれる形式で伺うのです。(後にも先にも、大晦日に自宅へ招いてくださったのは、後の八卦掌の師である麻林城老師だけでした)
年末を迎える前の私は、こんな状況になるとは夢にも思っていなかったので、人に会えないどころか、食糧の買い置きすらしておらず、キッチンに転がっているのは、大晦日の二日前に買った白菜だけ。豆腐もマントウも食べ尽くしてしまい、残っていた米と白菜で朝昼晩と白菜粥を作って、いつインフラが復活するのかも分からないまま、飢えと寂しさに耐えました。
しかし、本当の恐怖はここから始まるのです。
それからお正月が明けて3日目、ようやく陳正雷老師からご連絡をいただきました。
私は事前に『拝年』の手土産を用意していたので、さっそく一張羅のアディダスのジャージ(中国では、機能的で耐久性の高いジャージが普段着として多く着用されます、しかもアディダスが大人気です)に着替え、手土産を抱えて、陳正雷老師のご自宅へ向かうべく、外に出てタクシーを探しました。
4日間も一人で過ごしていたので、ようやく賑やかな場所へ行ける!日常を取り戻せる!と思うと、心が弾みました。
その年は旧正月に鳴らす爆竹が禁止されていたので(翌年2007年から解禁されました)、中国の正月らしからぬ不気味なほど静まり返った表通りに出ると、閑散とした道路を一台のタクシーがこちらへ向かって走って来ました。
手を挙げてタクシーを止め、車内に乗り込んで運転手に行き先を告げると、
「こんな日に女の子が一人で何しに行くんだい?」
と聞かれました。(当時私は30歳。すでに女の子ではありませんが、中国では日本人は若く見られます)
「老師のご自宅へ新年のご挨拶に伺うのです」
そう答えると、運転手は河南省訛りの口調で、
「実家に帰って家族と過ごすべきだ。正月に女の子が一人で出歩くのは、決して良いこととは言えないなぁ」
といった内容を、独り言のように呟きはじめました。
「君の田舎はどこだい?」
赤信号で車を止めたとき、運転手がいきなり振り返って私にそう聞いてきたので、太極拳館の友人から固く忠告されていた通り、「日本」とは言わずに「広東省」と答えました。
「広東省か、おれも滞在していたことがあるよ、広東のどこ?」
(ああ、これはまずい、誤魔化せない!)
と思った私は、今度は同じ友人から忠告されていた『第二案』を発動しました。
「いや、実は私は韓国出身なんです。父は広東省出身で母が韓国人なんです」
そうです、そうなのです。当時(2007年)にはすでに中国にも韓流ブームが訪れていたので、中国人に対して自分は韓国人だと言えば、大抵は好感を持たれていたのです。間違っても、見知らぬ人に不用意に「日本人」などと口走ってはいけないのです。
「へぃ、それじゃあんたは中国人と韓国人のハーフなんだね、そいつは珍しいやい」
運転手は突然好奇心のスイッチが入ったのか、中国と韓国の文化や発展の差について、猛烈に喋り始めました。
もともと私は作り話が大の苦手です。コンビニも本屋もない、山と川と畑しかない九州の過疎地で育ち、しかも小学生から高校卒業まで不登校児気味だったので、作り話ができるほどの社会的知識ありません。単身で中国に渡って太極拳の修行をする思い切りはあっても、土地勘が必要な作り話をするのは、日本だろうが中国だろうが無理難題に等しいのです。
不穏な雰囲気に怯えた私は、タクシーの車内に流れ込む排気ガスの臭いと緊張のストレスで胃が痛くなりそうになり、(早く陳正雷老師のおウチに着かないかなぁ)と、ただひたすら祈るしかありませんでした。
やがて運転手は、
「いやぁ、でもあんたが中国人と韓国人のハーフで良かったよ、これが日本人だったら話は違うからねぇ」
と言い始めました。
「タラ~リ」
真冬の車内は寒かったにもかかわらず、私は背中に嫌な汗をかきました。
「実はね、おれは昔、北京でもタクシーを転がしていたことがあるんだよ。そん時に、空港ま行ってくれっていう4人連れの客がいたんで乗せてやったら、ちょうど高速道路を走っている時にそいつらが日本人だってことがわかったんだ。おれ、その場で全員引きずり下ろしてやったよ! あーはっは」
(ヒィィィッ…!)
おそらくそのときの私は、顔面蒼白だったでしょう。
続けて運転手は、
「しかしお姉ちゃん、あんたの中国語には広東の訛りがないねぇ。お父さんは広東人じゃなかったのかい?」
私は、もうどうしたって、この『中国人と韓国人のハーフ』という苦肉の策を貫くしか活路はありません。
「私は韓国の学校で中国語を学んだのです。母は中国語が話せないので父は家では韓国語しか話さないのです」
と、咄嗟に思い浮かんだデタラメを答えました。(人間は追い詰められると大概のことはできるものです)
後から中国の友人に聞いたところ、「根掘り葉掘り質問してくるタクシーの運転手は失礼だから、無視していればいい」とのことでしたが、根が日本人なので、あからさまに相手を無視するなんてできません。しかもタクシーの車内という密室で!
私の「一刻も早く陳正雷老師のご自宅に着いてほしい」という祈りは虚しく、実に長い道のりを延々と走り、その間、運転手からは「いかに日本人が卑劣か」を深々と語られ、時に剥き出しになる反日感情に、(今、私が日本人だとバレたら、どんな目に遭わされるのだろう……、ううっ)と想像して、心底恐れおののき、改めて、普段接してくれている中国の知人や友人、そして何より陳正雷老師やト文徳老師が私によくしてくださっていることが身に染みて、ありがたく思えました。
あの時の恐怖は、今でも忘れられません。ただ、戦時中の中国で暮らしていた民間の方々が味わった恐怖に比べれば、私の恐怖など取るに足りないものだと思います。
しかし、2006年の旧正月を中国河南省で一人で過ごしていた当時の私は、太極拳館の外へ一歩出れば、自分が日本人だということをひた隠しにせざるを得ない状況にありました。
さらに、中国国内でもとりわけ保守的な伝統武術を学ぶという、普通では考えられない目標を掲げ、まるで「おたまじゃくしが滝を登る」ような無謀な挑戦に臨んでいたのです。
初出 2011年1月
つづく
