REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

総教練卜文徳老師の神髄

卜文徳老師のもとで

大会の一週間前。相変わらず鄭冬霞教練に『伝統陳式太極拳 競賽套路(五十六式)』を、卜文徳老師に『伝統陳式太極単剣』をご指導頂いていた私は、練習が終わった後、卜老師にこう言われました。

「よいか、この一週間、決して風邪を引いてはならぬぞ、そして夜間は外に出てもいかん、鄭州の道は舗装が良く整備されておらん、万が一ガラスでも踏んだら一大事じゃ、そして3日前から練習時間を半分に減らして十分に休むのじゃ、良いか、わかったかね?」

(ふむふむ)

私は良くわかったので「わかりました!」と返事をしました。

続けて、卜老師。

「それから、もう一つ、よいか、絶対に“エレベーター”に乗ってはいかんぞ!」

(えぇぇ、それはよくわからないなぁ、エレベーター?停電で閉じ込められるとか?)

私がキョトンとした顔をしていると、卜老師は遠い眼をしながら語り始めました。

「ワシがまだ現役時代じゃった頃の話じゃ。ワシは河南省チームの代表として、よく地方の大きな武術大会に出向しておった。ある大会の時じゃ、ワシは団長だったので、当然団員の管理をせねばならんかった。無事に大会の宿泊施設に入って皆で食事を済ませ、部屋に戻る時の事じゃ、大きなホテルじゃったのでエレベーターに乗ったんじゃ、ちょいと人数が多かった、無理をして乗った一人がエレベーターのドアに指を挟んで爪を割ってしまったんじゃ!」

そこまで言い終えると、卜老師は遠い眼から急に近い眼に変わり、地団太を踏み始めました。

「嗚呼、あれは良い選手じゃった、爪を割ったのは『推手』の名人じゃった、優勝間違いなし!と前評判の高かった、脂の乗り切った一番いい時期の選手だったんじゃ、良く考えてみぃ、套路は爪を割っても大して差し支えないが、しかし推手の選手が爪を割ったら致命傷じゃ〜!」

卜老師は、まるで昨日の出来事のように悔しそうなご様子で、地団太を踏み続けています。

「わしゃ、今でもその事を思い出すと口惜しい、口惜しいんじゃ!」

御年90歳とは思えぬ頑丈な膝で、“ドスンドスン”と地団太を踏んでいます。

(あわわわ、卜老師、そんなに興奮したら、また血圧が、血圧が……)

私は内心焦りましたが、卜老師を止められる人間など、この世には存在しないと思っていたので、(卜老師はそんなにご自分のお弟子さんや選手の事を大切に考えていたのだなぁ)と感激する事にしました。

初出 2011年3月