2007年4月。卜文徳老師のお孫さんである卜云龍は、本当に恋人を連れて卜老師の家に帰って来ました。そして約束どおり、私に武術の基礎を教えてくれるようになったのです。
たまに仲間が呼びに来たり、恋人にせがまれたりすると、練習を放って遊びに行ってしまうのですが、それでも卜老師は、不機嫌な顔をしながらも嬉しそうでした。
当時、卜老師のご自宅の前で卜氏八卦掌の伝授を許されていたのは、私と元軍人の小路の2人だけでしたが、小路は云龍には見向きもせず、ひたむきに、卜老師からご指導頂いた内容を黙々と練習していました。私は心の中で(小路はそんなに頑固に卜老師に拘らなくても、卜老師が現役だった頃を知っている云龍から学べることも沢山あるだろうに)と思いましたが、言うのは止めておきました。きっと彼の性格から考えて、聞き入れはしないだろうと思ったからです。
云龍は、卜老師と180度性格が違いました。
「爺ちゃんは牛だ!牛のような体力で黙々と練習していくんだ。俺は違う、俺は猿だ、猿のような賢さで布団の中で練習するんだよ!」
「はぁ?なんで布団の中なの?」と私が聞き返すと、「俺、夜遊び好きだろ、だからさぁ、早起きするの苦手なんだよ。でも朝布団の中で寝ぼけながら動きのイメージ・トレーニングするんだ。へへっ、それでも俺の動きは上達するんだからな、人にはそれぞれ合った練習方法があるんだよ!」
(おおおっ!なんだか良くわからんが、説得力がある!)
私はそう思いました。それほど云龍の動きは秀でていて、人を魅了する輝きがあったからです。
私が数か月間苦戦をして、もう諦めようと思っていた卜氏八卦鉞(ユエ)を云龍に見てもらうと、「ガーッ、お前ダサすぎ、ヤバイよその動き、素麺かよ!」と言って私の鉞を奪い、彼は華麗に舞い始めました。云龍が動くと、周囲の空気が変わります。公園でも駐車場でも、彼がひとたび動き始めると、人目を引きました。
(ななっ、なんだか凄っく楽しそうだぁ〜!いいなぁ〜、あんな風に動きたいなぁ〜)
私は子供のようにはしゃいで、「ねぇねぇ、どうやったらそんなにクルクル回せるの、基本功教えて!」と言って、双兵器(武器)の基本である“舞花”という腕と体の使い方を教えてもらいました。卜老師もご自身の練功をされながら、時々云龍の様子を見て、嬉しそうにしておられました。
私が鉞を持ち替えて、基本功なる“舞花”でグルグルと絡まっていると、云龍が言いました。「いいか、おまえ太極拳やってるってゆーのに、全然放松(ファンソン/余分な力を抜くこと)出来てないじゃんか、腰とか肩とか、とにかく全身緩んで協調してなきゃ、スムーズに回んねんだよ!」
(ニャンですと!)
「えー、そうなの?だって云龍は私のこといつも素麺って言うじゃん、なのに何で私まだ緩んでないの?」
「アホだなぁ、緩んでるのと素麺ってのは、意味が違げーよ」
(ほえ〜)
なんだか、云龍と練習をしていると、ゴリゴリに固まっていた私の脳みそが、ユルユルと緩んで血の巡りが良くなっていくような気がしました。
「お前さぁ、たぶん太極拳はそこそこ上手かもしんないけど、なんで爺ちゃんの八卦掌が上達しないかわかる?」
「えっ?ハッキリはわかんないけど、私、卜老師の八卦掌は子供の頃から筋肉とか運動神経とか、そういうの鍛えてないと出来ないって思ってた」
「あたり。おまえ基礎の筋力つけることとか、専門のパーツ分けした動きのトレーニングとかやんなくて、套路ばっかやってるから、ちっとも上達しないんだよ」
「だって私、子供の頃から武術やってきた訳じゃないし……」
「今からでも遅くないじゃん」
「無理だよ、私、もう31歳だもん」
「大丈夫じゃん、おまえ童顔で23歳くらいにしか見えねーし」
「そういう問題なの?」
「さ〜な、やって出来なかったら、そん時に考えればいーじゃん」
「はぁ」
私達の会話を聞いて、生真面目な小路の不快指数がジリジリと上がっているように感じましたが、私も上達したくて必死だったので、気にしないで云龍と練習メニューについて再検討してみました。
云龍いわく、私の動きには無駄な“振り”(陳式太極拳で言う“脱節之病”)があるそうで、まずその誤差を徹底的に減らすために『弓歩冲拳』を一日中やらされました。それから、跳躍の高さを出すための『全力スキップ』やら、蹴りの正確さを培うための『前面&側面踢腿』やら、壁に手をつけて脚を後ろに跳ね上げる『海老反り』やら、腰を基点に両腕を高速で旋回させる『旋転動作』やら、体内のリズム感を協調させるための『表現力』やら、何やらかんやら……
しかし、特訓は毎日ではありませんでした。これまた云龍いわく、「3日真剣に練習したら、2日真剣に遊べ!」だそうです。そんなことを言われても、卜老師は練功を休むのを嫌がるので、私は遊びに行きづらく、云龍だけが遊びに出かけていました。頑なに練習を続ける私を見て、云龍は「おまえはビョーキか?武術しかやること無いのか?おまえ、ある日イケメンに会ったら、“弓歩について熱く語りませんか?”とか言う気か?」と、からかいました。
ある日、云龍は「良いこと考えついちゃったもんね」とニヤニヤしながら私に耳打ちをしました。「今日は体能(走り込みとかスクワットとかの特訓)をやるから、公園に行く!と爺ちゃんに言う。俺が真面目な顔してウォーミング・アップするから、俺が走り出したら、おまえも一緒に走ってついて来い。今日は俺の彼女と友達が公園に来てるから、お前に遊び方を教えてやる!」
(ええぇ〜)
なんだか、いかがわしい遊びでもするのかと心配になりましたが、言われたとおり公園に走って行くと、云龍は待っていた恋人や仲間達と合流し、子供用の塗り絵広場やら、おじさんが配っている風船やら、色々な工夫をされた運動器具やらで、楽しそうに遊びはじめました。
私は「云龍が卜老師の後継者になったらいいのに」と、何度か彼に言いましたが、返ってくる言葉はいつも同じでした。
「武術をやって何になる?爺ちゃんは、あんなに達人なのに貧乏だ。武館の一つだって建てれやしない!俺はどうやって家族にメシを食わせていくんだ!」
やんちゃな彼でも、恋人との将来の生活を考えていたのです。