2006年6月中旬。既に真夏並みの暑さとなっていた河南省に舞い戻った私は、まず何はさておき、卜文徳老師のお宅へご挨拶に向かいました。
「ガン!ガン!ガン!」
鉄製の扉をノックし、「卜老師、我来了!」と声を張り上げると、卜老師は「好、好(よし、よし)」と言って扉を開けて下さいました。
私はまず、しっかりと卜老師の眼を見てから、電話一本で急に帰国してしまったお詫びをし、「今後はしっかり気持ちを新たに精進します!」と宣言しました。それから、日本から抱えてきたお土産をお渡しして、ご家族のご健康をお伺いしました。
卜老師は戻ってきた私を見て、とても喜んで下さいました。そして、またいつもの口調で言うのです。
「ホホホ、帰国してしっかり皆に中国で学んだ事を伝えてきたかね?まだまだ修行が足らぬ事がわかったじゃろう、中国での生活は苦しい、しかし少林寺で修行してる子供達に比べたら、お前さんはまだ恵まれておる、住む家も清潔で環境も整っておる、しっかり精進するのじゃ!」
私は少林寺の子供達と自分(30歳)の体力の差を比べる前に、卜老師に見捨てられなくて済んだ事が嬉しくて、心の中でホッと一安心しました。
卜文徳老師のご自宅はいつも節電のため薄暗く、壁に掛けてある賞状やメダルだけが重々しく輝いています。
「旅の疲れもあるじゃろうから、2日間休んで練功に来なさい」
そう言われて自宅に帰ったものの、何もする事がないので、私は太極拳館へ向かいました。
館内に入って行くと、何やら、ざわざわと人だかりができています。
「横山さん、見て見て! ほら、あれ、外国人だよ!」
(え?どこどこ、へぇ~、珍しい、外国人が来たんだ!)
(でも、私も一応外国人なんだけどなぁ~)
人垣を掻き分けて覗いて見ると、30代くらいの大人しそうな男性が、太極拳館の片隅に佇んでいました。聞くと韓国人だそうで、よく見てみると確かに、韓国ドラマに出てくる男性のようなパーマ(“たのきんトリオ”のトシちゃん風)をかけています。
どうやら中国語が殆ど話せないらしく、一人寡黙に太極拳の練習に取り組んでいましたが、その太極拳がとても上手だった事に私は驚きました。中国人の太極拳の風格とは少し違った、奥ゆかしさのある不思議な風格の拳なのです。私はとても新鮮なものを感じ、興味を惹かれました。
おそらく、私が帰国している間に留学に来たのでしょう。周囲の学生の反応から見ても、まだ半月も経っていない筈です。ジロジロと見られながら一人寡黙に練習している姿を見ていると、何だか他人事とは思えなくなってきました。
私もまったく中国語を話せない状態から中国に来たので、どんな単語を使えば会話が通じるのかは心得ています。簡単な単語と身振り手振りで話しかけてみると、その方はパッと表情が明るくなり、嬉しそうに片言の中国語で言いました。
「ワタシノ、トモダチ、キョウ、オナカ、イタイ、ヤスンデイル、アシタ、ココニ、クル、ソノ、トモダチ、ニホンゴ、ハナセル」
私に会わせたいような様子です。
翌日現れたその友達は、とても人柄の良さそうな方で、日本語も流暢とまではいきませんでしたが、通常のコミュニケーションを図るには問題のない日本語能力を持っていました。聞くと、太極拳館との手続きやら、食事やら、日常用品の調達やら、中国語がわからないのでとても困っているらしく、私と会えた事でとても嬉しい、と言ってくれました。
その日から、私は2人の面倒係、と言うより親友の様に親しく交流を深めるようになりました。
日本語も中国語も話せないのは「ジュアン」という名前の方で、地元韓国で太極拳の教練を務めている実力派でした。もう一人は「ヘソ」という名前の方で、韓国のファンタジー作家でした。ヘソ君は、さすが作家と唸らせる程、私との日本語会話の中で、日に日に日本語力を上げていきました。
会話と会話の“間”、距離感、礼儀作法、心遣い。言葉は不自由でも、2人との交流は非常に快適で、私は何のストレスも無く、色々な話をしました。
最初、私は韓国と日本の文化がきっと似ているんだ、だから気が合うんだ!と単純に思っていました。しかし交流を深めるにつれ、それだけではない事に気がつきました。
太極拳教練のジュアン君は仏教を信仰しており母親は漢方医、ファンタジー作家のヘソ君は愛読書が『金剛経』だと言うのです。2人とも、人生のある時期に絶望の淵まで追い詰められた事があったそうで、そこから心の平安を求め、仏教の思想や、太極の思想を学び始めたと言うのです。
私達の会話は、サラリと澄み切った青空の話でもしているような、爽やかなものでした。
私は、生まれて初めて“同志”と呼べる友に出会えた事を知り、歓喜で胸が一杯になりました。
しかし、2人が中国に滞在できるのは、3か月間だけでした。
たった3か月……
せっかく出会えた同志と共に過ごせる時間のあまりの短さに、胸がキュっと締め付けられる思いがしました。
「でも、せっかく縁あって同じ場で鍛錬する事ができるんだ!精一杯切磋琢磨しよう!」
そう自分を叱り飛ばして、いつもの様に早朝の卜老師の特訓を終え太極拳館へ向かうと、入り口の告知板に新しいニュースが貼り出されていました。
『第二届中国陳家溝国際太極功夫精英賽』
太極拳の本場、河南省で行われる伝統陳式太極拳の大会です。
私とジュアン君はこの大会に出場する事を決め、ヘソ君は私達のサポート役を買って出てくれました。
この大会が終わると、ジュアン君とヘソ君は韓国へ帰ることになっていました。
初出 2011年3月