REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

~壺~

師を探して

2007年6月、私は壺を頂きました。

誰に?

鄭州武術協会と、河南電視台(テレビ局)の武術世界頻道からです。

なぜ?

河南省で行われた、外国人を対象とした武術大会で優勝したからです。

しかし、我々優勝選手は、ありがたい河南省の名品である磁器製の壺を抱いて、呆然としていました。

「メダル……、メダルは?メダルは貰えないの?壺なんて飛行機に持ち込むの面倒だよ!」

皆が困惑していました。私は2種目で優勝したので、細長い壺と丸い壺と、2個も『壺』を頂きました。エアコン設備のない会場は室温が40度を超え、巨大な扇風機が轟々と音を立てて熱風をかき回している中、「もしかして、閉幕式の最後にメダルの授与があるんじゃないの!?」と誰かが声を上げていましたが、彼らの淡い期待も虚しく、でっかい箱に納められた壺のみを渡されて、武術大会は終了してしまいました。

地元の選手なら、壺を頂いても嬉しいかもしれません。しかし、外国人を対象とした武術大会なのです。ほとんどの選手は、大会が終われば飛行機に乗って自分の国へ帰るのです。壺は……、あまりにも“かさばり”ました。

しかしその時の私は、メダルも壺も、どうでもよい状態でした。大会前から39度近い熱を出していて、演武中に右ふくらはぎを痛め、立っているのもやっとだったのです。正直、疲れ果てていました。前日まで点滴を打ちながら大会に臨んだのです。

付き添いで来てくれていた卜文徳老師のお孫さんの云龍が、「壺はとりあえず俺が爺ちゃん家に持って帰ってやるから、おまえはタクシーで直帰して休め、また悪化したら電話しろ、点滴を打つから」と言うので、私はヨロヨロとタクシーに乗り込みました。運転手さんに自宅の住所を告げ、気絶しそうになる意識を何とか気合で持ち直し、自宅の団地前でタクシーを降りると、エレベーターの無い建物の5階にある自分の部屋まで階段をフラフラと這い上がり、視点が定まらず鍵穴が3重に見える所にやっと鍵を挿し込んで、部屋に入るとそのまま倒れてしまいました。

この大会より前の2007年4月、太極拳館の依頼で、黄河沿いに建てられた炎黄二帝の巨像の落成式に、表演団の一員として参加することになりました。連日早朝からバスに乗って黄河近くのイベント会場まで出向き、朝霧で体の芯まで冷えた後に、真昼のうだるような猛暑の中で隊列を組むという、予想していなかった状況に追い込まれました。おまけにイベント当日、疲労から『転身双擺蓮』という蹴り技で右太腿の裏を損傷してしまいました。

(写真:右太腿損傷の後、逃げ場のない状況下での一枚)

その怪我と疲労を抱えたまま、酷暑の中で徐々に体調が悪化し、気合で乗り切ろうと無理な練習を続けているうちに、原因のわからない高熱に見舞われたのです。それなら武術大会への出場を取りやめれば良かったのですが、私はその年の8月に、念願であった『中国焦作国際太極拳交流大賽』——簡単に言うと「陳式太極拳愛好者なら、必ず一度は出場してみたい!」と思う、陳式太極拳の本場の地で行われる太極拳大会——に出場しようと目標を立てていたので、事前に小さな武術大会に出て“大会慣れ”しておきたかったのです。

「助けて、死にそう……」という私からの電話を受けた云龍と彼の恋人は、私のアパートまで駆けつけてくれ、卜老師が住まわれている団地内の診療所まで運んでくれました。

そこは、とてもとても質素な診療所で、医療設備などほとんど見当たりません。高熱の中、おそれおののいた私が「云龍、近くの大きな病院に連れていって……」と呻くと、「なに言ってんだよ、大きな病院は散々待たされた挙句に、ここの5倍の診察料を取られるんだぞ、点滴なんて大病院も小さな診療所も同じなんだよ、俺は小さい頃からこの診療所の先生に治して貰ってるんだから、信用して大人しく点滴打たれてろ!」

そう言われたので、私は“まな板の上の鯉”を覚悟しました。卜老師一家の“かかりつけ医”であるという健康そうな女医さんが、アンティークと言うより、ただとてつもなく年季の入った古い引出しから点滴用の針を取り出し、私の腕に刺すのを虚ろな眼差しで見届けると、急に安堵感がこみ上げて、そのまま気絶してしまいました。

気がつくと、云龍が診療所の空いたベッドに横になって、テレビを観ていました。私は「謝謝(ありがとう)」と声を掛けようと思いましたが、喉に力が入らず、またそのまま眠ってしまいました。

次に眼を覚ますと、云龍の恋人が晩御飯を作って持ってきてくれていました。私の体を考えてくれた、食べやすい薄味の野菜料理です。「あ、ありがど〜、う〜」と泣きべそをかいて2人にお礼を言うと、「泣くな!がー、見っとも無い、夜市で売られてるハムスターより弱そうだ!」と云龍に言われました。既に何を言われても平気になっていた私が、実はシャイな云龍と彼の恋人に、何度も何度も「ありがど〜(正確に言うと、搾り出したような声で、謝謝〜!謝謝〜!)」を連発していると、恋人は照れて退散してしまい、逃げる機を逸した云龍は、女医さんを呼んで「あと何日で治る?」と話を逸らしていました。

云龍たちのような近しい間柄では、「謝謝」や「再見」という言葉は仰々しく聞こえて、嫌がられます。私はそれを知っていて、わざと「謝謝」を連発して云龍たちを困らせてみたのです。いつも冗談口調の云龍たちには、かえってその方が気持ちが伝わると思ったからです。その頃の私は既に、「必要であれば中国人を装い」、また「都合がよければ外国人の特権を使って茶目っ気を出してみる」というほどにまで、中国の生活に慣れていました。

数日後、なんとか一人で生活できるまで回復した私は、卜文徳老師のお宅に置かせて貰っていた例の『壺』を、2個担いで自宅に持って帰りました。