2006年8月上旬。太極拳大会を2週間後に控えた私たちは、それぞれ自分のエントリーした種目の套路の仕上げにかかっていました。
私は毎日の練習メニューを大会用に組み替える必要があったので、早朝の卜文徳老師のしごきを一時停止して貰い、午前中は太極拳館で太極拳の基本功に力を入れ、昼食後は少し休み、午後2時から3時までの一時間、『伝統陳式太極拳 競賽套路(五十六式)』を太極拳館の鄭冬霞(ジェン・ドンシィア)教練に個人指導して頂きました。それが終わると急いで自転車に乗って卜文徳老師のご自宅へ向かい、『伝統陳式太極単剣』の手ほどきを受けます。
卜文徳老師曰く、
「わしゃ、太極拳は嫌いじゃ」
だそうです。
「若い頃、陳式太極拳をやってみたが、どうも動きが遅すぎて、イライラして、性に合わん!」
だそうです。
しかし、陳式太極単剣(つるぎ)は何故かお気に召していたようで、
「陳式の剣(つるぎ)は良いぞ、戦う剣じゃ!戦剣じゃ!」
とおっしゃって、ご指導はノリノリでした。
それまで、私は太極剣(つるぎ)も太極拳も同じ気分で練習していたのですが、卜文徳老師に「武器と套路は別物じゃ、套路は内に含む、武器は相手にとどかせねばならんのじゃ!」と言われ、目から鱗が落ちました。
突く!切り上げる!切り下ろす!叩っ切る!払い切る!滑り切る!柄で殴る!振り向きざまにもう一切り!
それまで優美だと思っていた太極剣(つるぎ)が、卜文徳老師のお陰で“オラオラ”モードの戦剣に変身しました。
一方、同じ時間、ヘソ兄さんは寮で小説の執筆をし、ジュアン兄さんは太極拳館で表演隊(陳家溝から選び抜かれた若者たちで編成されている、太極拳の専門教練になる為の養成を受けているチーム)と一緒に、『推手』の特訓をしていました。
この特訓は凄まじいものでした……
ハードな走り込みや減量、ウェイト・トレーニング程度のものなら、もはや私は驚かなくなっていました。何に驚いたのかと言うと、いつもはお洒落で遊び好きの表演隊の男の子たちの“豹変”ぶりです。
全員十代の男の子チームは、さながら日本で言うジャニーズ軍団の様でした。良い言い方ではありませんが、いつもは何となくプライドが高くて、服装や髪型などにこだわっている(まぁ、十代とはそういう年頃かもしれませんが)男の子達が、推手になると“物凄い殺気”を出して豹変するのです。
ジュアン兄さんなど、ある日、推手で表演隊の体の細い男の子と組んで、Tシャツで顎を擦って流血したと言っていました。
(Tシャツで擦って流血って、どんだけ擦ったの……)
と私は思いましたが、実際に練習現場を見て納得しました。
表演隊の男の子達の推手には、テクニックとか、パワーとか、そういう評論めいたものを一切言わせない、圧倒的な気迫がありました。
純粋な戦う眼、呼吸、そして、練習の合間の静けさ。
計り知れない太極拳の歴史の氷山の一角を見た様な気がしました。
太極拳の発祥の地、陳家溝は農村です。非常に貧しく、私が通っていた太極拳館の創立者である陳正雷老師など、幼い頃、剣の練習をするにも剣そのものが無かったので、木の枝を拾ってきて仲間と練習をしていたそうです。物資も医療も乏しい農村で、一族の残した太極拳という技を継承し続けてきたのです。
血です、血、すなわち命、伝承とは命を介して伝えられていくものだと、肌で感じました。
大会の一週間前、ジュアン兄さんはエントリーしていた『推手』を辞退しました。「套路のみの出場に絞る」とだけ短く言って、後は何も言いませんでした。
この時期の私の練習を客観的に見ると、片や内面の感覚を重視する太極拳、片や筋肉を鍛える卜文徳老師のしごき。友人と言えば、精神的な平安を求めて共に精進する韓国の同志たち、そして戦う眼を持った若き猛虎(表演隊)たち。まったく正反対の練習を同時に行っていたので、色々な人から「そんな練習をしていたら、結局全部中途半端で終わっちゃうよ」と言われていました。
それでも私は、思いっきり好奇心に任せてチャレンジして、汗を流して、挫折して、泣いて、笑って、食べて、眠っていました。
初出 2011年3月
後日談
2026年9月、当時の表演隊にいた陳海軍くんの近況を紹介する記事を見つけました。写真を見て、いろいろな話を聞かせてくれた、あの陳海軍くんだとわかりました。
記事によると、2014年に北京で「両儀堂」という太極拳の拳館を開き、ラトビアやルワンダ、ボリビアなど、海外でも太極拳を教えているそうです。