REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

迷い猫の元甲

北京・程派八卦掌

2009年8月中旬、住んでいた団地の近くの公園でいつものように午後の自主練功を行っていると、北京の夏特有のスコールに降られました。空が真っ暗になり、とてもすぐには止みそうになかったので、私は練功をあきらめて、自宅に戻ろうと急ぎ足で公園を去りました。

自宅の団地の入り口まであともう少し、という場所まで歩いた時、猫発見器を搭載している私の耳に、助けを求めている子猫の鳴き声が聞こえました。鳴き声の聞こえる方向へ足を運ぶと、そこは小さなガソリン・スタンドでした。「ニャァー!ニャァー!」と、とても元気な強い声だったので、まだそんなに弱ってはいないと判断し、「お〜い、何処にいるの?出ておいで〜」と呼びかけると、目の前に停まっていた無人の黒い車のタイヤの影から、白黒の子猫がずぶ濡れで姿を現しました。

その瞬間、覚悟はできました。いつか帰国しなければならないので猫と一緒に暮らすのは不可能だったのですが、緊急事態です。このまま放っておいたら、明日の朝には間違いなく、こんなに元気な鳴き声は出せなくなります。

私のもとに鳴きながら駆け寄ってきた子猫を抱き上げると、とりあえずガソリン・スタンドの店員さんに、子猫の飼い主が近くに居ないかどうか聞いてみました。

「我想问一下!这小猫是有人养的吗?(ウォー・シャン・ウェン・イーシャー!ジェー・シャオマオ・シー・ヨウレン・ヤンダ・マ/すみません!この子猫は誰かの飼い猫ですか?)」

すると、もうすぐ下班(シャーバン/仕事が終わること)の時間を迎えようとしていた若い店員さんたちは、「没有!它一下午都在那一直叫(メイヨウ!ター・イーシャーウー・ドウ・ザイ・ナー・イージー・ジャオ/飼い主なんて居ないよ!午後の間ずっとそこで鳴いてたよ)」と言っていました。

私は一応付近を回って民家を探してみたのですが、大通りに面したその場所は、ガソリン・スタンドの他には整地された緑地スペースがあるだけで、人が住んでいるような建物は見当たりませんでした。ウロウロしていると、私の腕の中で安心したのか、子猫が鳴くのをやめて震え始めました。風邪でもひいたら大変だと思った私は、飼い主を探すのを一旦あきらめて、自宅に連れて帰ることにしました。

泥だらけだったのでお風呂に入れようと思ったのですが、余計な体力の消耗とストレスを与えたくなかったので、「お〜い、どうする?寒い?」と子猫に聞いてみると、「ニャゴー!ニャゴー!」とまた元気に鳴きはじめたので、(夏だし、気温も高いし、大丈夫)と判断した私は、洗面器にお湯を張ってお風呂の準備をしました。その僅かの間、子猫は何をしていたのかというと、普通猫というのは見慣れない場所に連れてこられると用心深くなるのですが、まったくもってそのような様子ではなく、まるで我が家の主かのように部屋の中で遊び始めました。

(おいおい、全然物怖じしてないよ、飼われてた猫なのかな?しかし度胸があるな)

私はえらく感心し、その子猫に強く興味を持ちました。趣味で写真を撮り始めていた私は、カメラを設置して、記念すべき初めてのお風呂写真を撮りました。小さな暴れん坊の子猫さまは入浴がお気に召さなかったらしく、かなりの抵抗を示されましたが、私も負けずに、そこを何とか受け入れてもらいました。入浴後もムッとしているご様子でしたが、素早くタオルで水分を拭き取って温いドライヤーの風を当てて乾かすと、ご機嫌は随分良くなったようでした。

子猫は自分で気が済むまで濡れた毛を舐め上げてから、まだ全部乾ききらないうちに台所に置いてあったジャガイモを発見したようで、なぜかそのジャガイモと、ゴロゴロと相撲を取り始めました。呆れて見ていると、なかなか良い筋の動きです。私はふと、ジェット・リー主演の映画『霍元甲』(日本名:SPIRIT『スピリット』)に出てくる、霍元甲の子供時代の風景を思い出しました。やんちゃな霍元甲に、友人役の男の子が可愛い声で「ユェン・ジャア(元甲)!ユェン・ジャア!」と呼ぶシーンです。勝気でやんちゃで無鉄砲なところが似ていたので、子猫に“ユェン・ジャア”(元甲)と名前を付けてしまいました。

名前なんか付けている場合ではありません。猫と一緒に暮らす条件は私には無いのです。元の飼い主か、新しい飼い主を見つけてあげなければならないのです。でも、参ったことに、すっかり好きになっちゃっています。

「あ〜、も〜、仕方ないなぁ、とりあえず何か食べる?」と聞くと、ジャガイモ相撲に夢中だったユェン・ジャアは完全に私を無視すると決め込んでいる様子だったので、私も気にせず、近くの食品市場に自分の晩御飯の材料と、ユェン・ジャアの晩御飯の鳥のササミを買いに行きました。鳥のササミを茹でていると、ユェン・ジャアは突如!四肢でジャガイモを蹴り飛ばし、私の足元に寄ってきて、轟音で「ニャー!ニャー!」と鳴き始めました。

「好!好!等一下,一会儿就可以吃大餐了(ハオ!ハオ!デン・イーシャー、イーフイル・ジウ・クーイー・チー・ダーツァン・ラ/OK!OK!ちょっと待って、もうすぐご馳走食べられるから)」

と話しかけて、茹で上がったササミを細かく裂こうと思ったのですが、とてもそんなお上品な食べ方をするような様子ではなかったので、小さな塊のまま中が冷めるのを待って、「はい、どーぞ」と言って目の前に置いてあげると、ユェン・ジャアは一瞬「何それ?」という顔をしましたが、すぐさま飛び掛ると、ガブガブ食べ始めました。

(な、なんか、全然捨て猫っぽくない……、全然可哀そうじゃない……)

と私は羨ましいほどの食欲でササミを食べているユェン・ジャアを見つめていましたが、『腕白でもいい、たくましく育って欲しい』という『丸大ハム』のCMを思い出し、(元気だから、いっか!)と思い直し、自分の晩御飯を作って食べました。

この日から、ユェン・ジャアとの生活が始まりました。練功時間の隙間を縫って、あのガソリン・スタンドの付近を回って飼い主を探したり、近くの動物病院に行って子猫を欲しがっている人が居ないかどうか聞いてみたり、でもまったく引き取り手の当ては見つかりませんでした。

そして、段々心配なことが出てきました。それは、ユェン・ジャアの性格です。とにかく凶暴で、攻撃的で、ジッとしていません。一度、大衆食堂にいたカップルの彼女の方が白い子猫を大事そうに抱いている姿を見かけたのですが、見るからに“子猫ちゃん”で、とても可愛らしく、愛される要素満点だったので、(この強面で凶暴なユェン・ジャアを気に入って飼ってくれる人が、果たして見つかるのかどうか……)、私はとても心配になってきました。しかし、『ダメな子ほど可愛い』ではないですが、心配をすればするほど、ユェン・ジャアが可愛くて可愛くて仕方なくなります。

中国茶店の杨渊さんにも子猫の引き取り先を探すのを手伝って貰うことになりましたが、毎日練功が終わって自宅に戻る途中、ユェン・ジャアの大好物の鶏肉やキャットフードを買っている時、それからドアを開けた時、どんなに熟睡していてもすぐに飛び起きて私の足元に駆け寄ってくるユェン・ジャアを想像する時、早く会いたくて、早く帰りたくて、心が急いてしまう時、もう抑えきれないくらいユェン・ジャアが好きになっていることを自覚しました。