留学記を読み解く

横山春光の中国武術留学記

「北京空港へ到着」を読み解く

代表・田中稜月中国武術留学記の全話目次

「中国武術留学」の「なぜ?」

2004年9月20日、北京空港に降り立った28歳の横山春光会長ですが、第1話を読んで、「なぜ太極拳?」「なぜ中国留学?」と思った方もいるのではないでしょうか。

そこで今回は、物語が本格的に動き出す前に、横山会長が中国武術留学に至るまでの経緯を少し整理しておきたいと思います。

「太極拳」との出会い

横山会長は1976年、宮崎県生まれです。

1975年から1984年に生まれた人たちは、「就職氷河期コア世代」と呼ばれています。社会へ出る時期に厳しい雇用環境に直面し、正規雇用への入口が狭く、非正規雇用から職業人生を始めた人も少なくない世代です。

そんな時代に、横山会長は18歳で宮崎を離れ、音楽の夢を抱いて一人で上京しました。

飲食店で働きながらバンド活動を続け、ライブハウスでのレギュラー出演目前までたどり着きますが、直前でメンバーが離脱。長年追い続けた音楽の夢は、そこで潰えてしまいました。

第1話にある「18歳で上京して大挫折した教訓」とは、この時の経験です。

その後は派遣社員としてIT企業に勤務。独学でWeb制作を学び、仕事では評価されるようになりましたが、もともと身体が丈夫ではなく、次第に心身の負担が大きくなっていきました。

そこで「やらなくてもいいことをやめる」など、自分の心身をいたわることを始めます。

腕で円を描くように動かすと身体が心地よい。

そんな感覚を覚えるようになったある日、会社の階段の踊り場で自分で考えた体操をしていた時、窓からふと空を見上げると「太極拳」という三文字が頭に浮かびました。

そして都内の太極拳教室へ通い始めます。

そこで教えられていたのが陳式太極拳でしたが、この時はまだ「陳式」が何を意味するのかも分かっていませんでした。

2002年9月。26歳の時でした。

思い描いていた形とは違う始まり

太極拳を始めた横山会長は、「いつかお金を貯めて、年に一度くらい中国へ習いに行けたら」と考えていたそうです。

ところがその後、教室の先生が師事していた別の太極拳の先生から、会社を辞めて太極拳に専念することを強く勧められ、二つの道場を行き来する生活を送ることになります。(以後、この先生を「日本の太極拳の先生」といいます。)

そこで学んだのが、陳式心意混元太極拳(混元太極拳)でした。

そして2004年、日本の太極拳の先生の意向によって中国へ武術留学することになったのです。

つまり、この「中国武術留学」は、横山会長が自由に計画した個人旅行ではなく、派遣される立場での中国行きでした。「何かを学んで帰らなければならない」という責任やプレッシャーも背負っていました。

「北京・志強武館」に入学

横山会長が北京へ向かった目的は、混元太極拳の創始者・馮志強老師が設立した「北京・志強武館」で学ぶことでした。

日本の太極拳の先生が馮志強老師と面識があったことから受け入れが実現し、第2話では空港まで迎えに来てもらっています。

しかし、紹介されて武館へ入れば、それだけで功夫が身につくわけではありません。

誰と出会い、どう学び、どのように信頼を築いていくのか。留学の始まり方と、そこで後に得たものとは別です。

ここから先は、横山会長自身の歩みです。

故郷を離れて追いかけた音楽の夢に挫折し、就職氷河期コア世代として社会に出て、心身の限界を感じる中で出会った太極拳。

その先にあった中国行きは、本人が思い描いていた形でのスタートではありませんでした。

それでも北京に降り立ったこの日から、馮志強老師をはじめとする中国武術家たちとの「武縁」が始まります。

もちろん、この時の横山会長にはそんな未来が分かるはずもありません。

早速待っていたのは、中国語のシャワー。

その顛末は、第3話を読んでいただきたいと思います。