REPORTAGE / 2004–2010

横山春光の中国武術留学記

部屋の中に漂う銀河

卜文徳老師のもとで

2006年4月。私は相変わらず、毎日ハードな練功の日々を送っていました。

それは、逃げ場のない排気ガスとの戦いでもありました。練習場所から家まで、最短距離で帰る。それ以外は、一秒たりとも外にいたくない。精神的ストレスなのか、肉体的ストレスなのか、それとも環境的ストレスなのか。もう何がなんだかわからないまま、ジワジワと積み重なってくるものを、日々、感じ“ないように”努力していました。

当時、卜文徳老師から教わっていたのは、体能訓練(体力アップ)と、基本功(ストレッチや体全体の動的バランスを培う総合運動)と、“眼法”。

そして、その中で、一番、一番、一番、疲れたのは、“眼法”でした。

走り込みは、途中からランナーズ・ハイになれるので、ある意味楽です。ストレッチなんて、伸ばしながら顔を伏せて半分寝てました。しかし“眼法”ばかりは、卜文徳老師の武功の真髄でもあるので、それはそれは厳しく仕込まれました。

「うーん、やっぱり顔がダメじゃ、また敵を見ておらんじゃないか!」

毎日毎日、こう叱られます。「卜老師! すみません、こうでしょうか!」と何度も反復していると、卜老師はいつも痺れを切らし、スイッチが入ってしまいます。

卜文徳老師には、口癖があります。

「よいか! よーく見ておれ。相手がこうきたら……」

卜文徳老師(ご自宅の駐車場にて)
卜文徳老師(ご自宅の駐車場にて)

「我就是这样!!」(わしゃ、こうやるんじゃ!!)

「我就是这样!!」

「我就是这样!!」

「我就是这样!!」

もう誰も卜老師を止められません。

「はいーっ!」

私も負けずに殺気立って動きを模倣してみるのですが、私は殺気立てば立つほど気が上がり、すぐにクタクタになってしまいます。

(どうして卜老師は87歳なのに、あんなにすごいのだろう。きっと超人なんだ、そうに違いない)

私は、ただただ圧倒されるばかりでした。

河南省の太極拳館には、毎月中国全土から、色々な人たちが太極拳を学びにやってきます。地元の学生さんたちは私が日本人だと知っているので、私の太極拳について特に何も言いません。ところが地方から来たばかりの学生さんたちは、私を見るとこう尋ねてくるのです。

「ねぇ、あなた陳家溝の人でしょう? 教練になるためにここで学んでいるの? 何年太極拳を学んでいるの? 上手ねぇ」

陳家溝は太極拳発祥の地で、家伝の陳式太極拳を身につけた人たちがたくさん暮らしています。私はいつも「あわわわ、いえいえ、違います、違います、私は陳家溝の出身ではありません」と弁解していました。(もちろん、日本人だとは言いませんでしたが)

そんな光景が日常になると、地元の学生さんたちは面白いと思ったのか、「ねぇ、この子、どこの出身に見える?」と新顔の学生さんたちをからかいはじめました。大抵は香港人か南方人、もしくは大陸以外の中国人だと勘ぐられます。私は日本人だと言いたくなかったので、笑って誤魔化していました。

自分でも知らない間に、一見すると中国人に見えるくらいの語学力と雰囲気を、私は身につけていたのです。

しかし、人生そうは簡単にいかないのです。(簡単にいってくれれば、どんなに良いのやら)

鄭州市の街角でよく売られているハムスターよろしく、機械的でストイックな生活を送っていた私は(それは私が望んでそうしていたのですが)、どうやら心と体が「NO」サインを出したらしく、徐々に食欲がなくなっていきました。しまいには、一口も食べられません。

以前、北京へ離れて調子が戻ったことがありました。今回も北京の武館へ10日間行き、自主練習をしました。北京には、会いたい友人たちもいたのです。

北京では、小王に連れられて伝統武術の大会を見に行き、私は初めて程派八卦掌を見ました。その動きは、まるで龍のようでした。会場のみんなが大興奮で、小王も「あれが八卦腰だ、とても柔らかい! 混元太極拳をマスターしたら、将来あの腰の動きを学んでみたい」と目を輝かせていました。

ところが今回は、まったく調子が戻りません。鄭州市の自宅に戻ると、そのままベッドに横になり、一週間、寝たきりになりました。

寝室の電灯は切れたままでした。買いに行く気力が、ずっと起きなかったのです。夜は灯り代わりにテレビを付けて、音量を無音にして、ただベッドに仰向けになっているだけ。天井がグルグル回って、真っ暗な中に銀河のようなものが見えました。

……

死の匂いがしました。

(このままだと死ぬ。もう無理だ。帰らなきゃ)

私は着の身着のまま、いったん日本へ帰ることにしました。

初出 2011年2月

つづく